TPP交渉参加で日本の医療は変わるのか?(第4回)
TPPによる外国人医師・看護師の流入はあり得ない
日本が参加してから2回目となるTPP交渉会合が8月22日から始まる。TPP交渉によって外国人の医師や看護師が日本市場を脅かすことはない他、ISD条項を通じ日本政府が外国企業から提訴される可能性も極めて低い。
8月22日から30日までの間、日本が交渉に参加してから2度目(交渉全体としては第19回目)となるTPP(環太平洋パートナーシップ)協定の交渉会合がブルネイで行われる。日本が全日程に初めて参加することになるこの交渉会合では、農産品などセンシティブ品目の関税引下げをどうするのかに関心が集中することになるだろうが、並行してサービス分野や知的財産権などに関する議論も行われる。今回は「医師や看護師の流入」「ISD条項によって国家が企業に提訴される」といった論点について考えてみる。
連載:TPP交渉参加で日本の医療は変わるのか?
日本の免許を持たない医師や看護師の流入はあり得ない
TPPに参加すると「外国人労働者、特に単純労働者が大挙して日本国内にやって来る」という論調が一部にあるが、過去に単純労働力の流入に合意した自由貿易協定(FTA)は見当たらない。特に9.11同時多発テロを経験した米国は、単純労働力の流入に最も敏感になっている国であり、米国が参加するTPPで単純労働力の移動が認められる可能性は皆無だといえる。
TPP交渉には「商用関係者の移動」や「労働」といった作業部会が存在しているため、あたかも労働力の移動の自由化が議論されているように捉えられがちである。しかし、これは全くの誤解だ。まず「商用関係者の移動」は、各国が出入国管理に当たってビザ発給を行う際の手続きを透明化しようというものである。企業の事業活動では、社員の短期出張、市場調査や契約など商談での訪問、さらには企業内の海外転勤などが頻繁に発生する。ビザの免除が行われていない国の間では、渡航に際しては短期入国ビザの申請が必要となり、海外転勤のためには労働ビザの取得が不可欠になる。しかし、この手続きに長い時間がかかったり、膨大な書類の提出を求められたり、あるいは十分な説明なくビザ申請が不承認となったりするケースがあると事業活動の大きな障害になる。
TPP交渉においては、こうした商用関係者の移動を、例えば「企業内転勤」「短期出張」「契約により招聘されるサービス提供者」「専門職業(経営コンサルタントやアーティスト、スポーツ選手など)」といった形に分類し、これらに対して迅速で透明性の高いビザ発給を行うことをルール化するという議論が行われている。
これらの分類の中には、病院に勤務する清掃や給食などのサービスを提供する労働者は含まれない。また、医師や看護師、その他の医療従事者などは「専門職業」には含まれない。日本は、自国の医師・看護師免許を取得していない者が医療サービスを提供することを原則認めていない。これは、多くのTPP交渉参加国においても同様である。TPP交渉参加国の中には、医師免許の相互承認を行っている米国―カナダや、英連邦諸国(オーストラリア、ニュージーランド、シンガポール、カナダ、マレーシアなど)がある。これらの国々においては法体系や言語が共通化されているからこそ相互承認が可能だと考えられ、その他の国々と相互承認を行うことは困難であろう。
ごく一部の例外として「国内に居住する外国人に対して、その国の資格を有した医師や看護師が医療を提供することを限定的に認める」という場合がある。日本政府はイギリス、フランス、シンガポールなどと協定を結び、互いに自国の医師免許を保有した医師が相手国内で自国民を診療することを認めている。しかし、これはあくまで互いのビジネス・観光上の交流が活発で、滞在する外国人が母国語で医療サービスを受けたいという、限定的なニーズに対応するものだ。そのため、少数の医師の相互移動が認められているだけであり、商業的な全面自由化とは異なる。
看護師・介護福祉士候補生も日本の資格免許を取得する必要がある
なお、議論を分けておく必要があるのは、日本がフィリピン、インドネシア、ベトナムとこれまで締結した経済連携協定(EPA)において、相手国の看護師や介護福祉士の候補者を受け入れるという制度である。これには、先進国である日本が途上国とEPAを締結する際、日本が相手国の高い関税率や投資上の障壁の撤廃を要求するのに対して、途上国側が自国の関心ある分野の自由化を日本から得ることが難しいという背景がある。そもそも日本の工業製品の関税は世界でも最も低い部類であるため、その引き下げも限定されている。一方、途上国の輸出産品である農産品の関税は、日本にとってできるだけ守りたい分野である。その結果、途上国の関税などの引下げと日本の農産品関税維持の対価として、看護師・介護福祉士候補者の受け入れを認めているのだ。
既にインドネシア(2008年)、フィリピン(2009年)からの看護師・介護福祉士候補者の入国が始まっている。2011年3月にEPAを通じてインドネシア人とフィリピン人の看護師が日本の国家試験に合格している。ベトナムについては現地での語学研修を経た上で、2014年に最初の候補生が入国する予定だ。
このように、EPA(FTA)を通じて看護師や介護福祉士の候補者を入国させ、一定期間の研修を経た上で国家試験に合格すると有資格者として滞在が可能になる制度を採用しているのは、世界の中でも日本だけである(韓国が日本の制度にならって検討したケースはあるようだ)。そのため、この制度がTPPに波及することは考えにくい。日本のEPAの場合でも、国内で就労するにはあくまで日本の国家資格の取得が前提となっており、日本の資格を持たない看護師や介護福祉士が海外から多数流入するという事態は全く想定されていない。
労働規制は強化される方向に
また、TPPの「労働」作業部会は「労働移動」を議論する場ではなく、「貿易と労働基準に関するルール」が議論の対象となっている。発展途上国の中には、労働基準法が存在せず、労働者を長時間低賃金で働かせたり、就学すべき児童に労働を強いて生産した物品を低価格で海外に輸出する国もある。米国は、公平・公正な国際貿易の実現に向けて共通の競争環境で取引を行う必要があると考えており、各国に適切な労働基準を策定するよう働きかけている。この点について、日本も同じスタンスを取っており、米国と歩調を合わせていくことになるだろう。
以上の点を踏まえると、TPP交渉によって外国人の医師や看護師が流入するということは考えにくい。
国家が外国企業に提訴されるのか
TPPを議論する際にしばしば取り上げられる「ISD条項」。ISD条項とは「Investor-State Dispute Settlement」(投資家対国家の紛争解決)に関する条項だ。WTOによる多国間の貿易ルールにおいては、貿易紛争が発生した場合は「国家対国家」で紛争解決を行うことになる。これに対して、TPPをはじめとする近年のFTAでは、個々の投資家が相手国政府を直接提訴することができる規定が設けられている。国家間であればまだしも、企業が個別に国家を提訴できるようになると「TPPへの参加により日本政府が次々と米国企業から提訴される恐れがある」という懸念が生まれてくる。
しかし、ここに大きな誤解がある。外国の医療機関が日本で病院経営を始めた場合を例に挙げてみる。日本の医療法に規定されている「利益の株主配当を認めていない」ことを理由として、外国の医療機関が政府を提訴することはISD条項であっても不可能だ。ISD条項は「企業が参入する時点で認められていた事業活動が、その後の制度変更や運用の変更によって実行不可能になった場合に、その不利益を回復するために提訴できる」という制度だ。つまり、自由化していたものを自由化の対象外としたときに初めて問題が起こるのであって、現実にはそうしたケースは頻繁には発生しない。
確かに世界では企業が国家を提訴するケースが既に幾つも発生しているが、大きく2つのパターンに分類される。1つは「従来の制度が政治的な理由で急に変更(法改正)になる」というケースで、途上国に多く見られる。もう1つは「連邦制を採用している国において、中央政府の制度と地方政府の制度が異なるために発生する」というケースで、こちらは先進国でも起こり得ることだ。貿易自由化交渉が国家と国家の間で結ばれるため、事後的に地方政府(州政府など)が新たな規制を設けて事業者の活動を制約すると、国家間の自由化約束に反することになる。TPP交渉参加国の中では、米国、カナダ、メキシコ、マレーシアが連邦制を採用している。
日本の場合、地方自治体が中央政府と異なる制度を導入することはまれである。そのため、事後的な制度変更により参入した外国企業の事業活動が妨げられるという可能性はとても低いと考えられる。
なお、このISD条項によって制度そのものの変更が迫られるわけではない。ISD条項の趣旨は「一度国内市場に参入した外国企業(基本的に投資によって拠点を設立して事業を開始した企業)が、参入国の制度変更によって自由化の約束が破られ、事業の継続に当たって損害を受けた場合にその損害を賠償する」ことにある。また、事業が継続できなくなったり、事業活動の大幅な変更・縮小を余儀なくされたりしたケースも対象となる。
例えば、自宅が建っている場所が区画整理の対象となり、新しい道路が建設されるとする。その場合、立ち退きを求められた世帯は、行政に対して正当な「立ち退き料」を請求できる。FTAにおけるISD条項もこの考え方と基本的には同じだ。
もし将来にわたって制度変更を求めるような場合、ISD条項を用いるのではなく、WTO(世界貿易機関)の紛争解決メカニズムを通じた「国家対国家」の紛争処理の手続きに入る必要がある。このように、WTOにおける国家対国家の紛争処理と、FTAや投資協定などに見られるISD条項は性格の異なるものだ。
なお、国際標準に適合していなかったり、国際標準が存在していない新制度を導入しようとする場合、WTOをはじめとする国際貿易ルールではこれを通報するメカニズムが存在している。例えば、医療機器の安全基準や医薬品の成分表示などに関しては、TBT(Technical Barriers to Trade:貿易の技術的障害)委員会に、食品の残留農薬や健康食品の安全性などについてはSPS(Sanitary and Phytosanitary measures:衛生植物検疫)委員会に対して、以下の内容を事前通報することになっている。このように新制度の導入によって影響を受ける可能性がある国は、新制度に対する意見を述べることができる。
- 新たに導入する制度の概要
- 対象となる製品
- 制度導入の目的
- 制度導入予定日
- 当該制度により影響を受ける国が提出できるコメントの期限、など
こうした制度は、TPP交渉参加国がWTO加盟国であれば全て適用される。また、最近のハイレベルFTAにおいては、事前通報制度を超えて新たな規制に関する事前協議のメカニズムが存在している。TPPにおいても事前協議のメカニズムが設置されることになると予想される。こうしたメカニズムを活用していけば、ISD条項によって提訴されるリスクは大きく減少することになる。
次回(最終回)は、TPPと医療に関する議論全体を整理するとともに、日本がTPP交渉にどのような戦略を持って取り組むべきかについて課題を提起する。
著者紹介
小田 正規(おだ まさき)青山学院大学WTO研究センター客員研究員
東京外国語大学外国語学部英米語学科卒、慶応義塾大学大学院経済学研究科修士課程修了。1991年に(株)三和総合研究所(現 三菱UFJリサーチ&コンサルティング(株))に入社、通商政策、アジア経済分野の調査に従事。2009年~2012年には内閣官房国家戦略室において成長戦略、TPP交渉参加問題を含む通商政策の立案において中心的役割を果たす。
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