TPP交渉参加で日本の医療は変わるのか?(第2回)
TPP交渉のよくある誤解、「国民皆保険」はなくなるの?
いよいよ、日本がTPP交渉に参加した。その結果、日本の医療はどのような影響を受ける可能性があるのか? 「国民皆保険制度」「混合診療」「企業の病院経営参入」について論点を整理する。
TPP(環太平洋パートナーシップ)協定の交渉への参加により、影響を受けると指摘されている分野の1つが医療分野である。医療関係者や学識者などからも懸念が表明されているが、TPP交渉において医療分野はどのように議論されているのだろうか。果たして、本当に日本の医療はTPP交渉によって変わるのだろうか。前回「交渉開始直前! TPPのどこに注目すべきか」では、TPP交渉の注目点について全体像を整理したが、今回から3回にわたって、個別の医療関連分野がTPP交渉でどのように扱われるのか、その結果、日本の医療はどのような影響を受ける可能性があるのかを見ていきたい。
国民皆保険はどうなるのか
医療分野の中でも国民の関心が最も高いのが、「TPP交渉参加によって、日本の優れた国民皆保険制度が崩壊するのではないか」という点であろう。国民皆保険制度とは、全ての国民が公的支出を伴う何らかの医療保険制度(国民健康保険、企業健康保険、協会けんぽ、共済組合など)に加入し、一定の負担の下に低費用で医療を受けられる制度のことだ。TPP交渉参加国の多くも、公的な医療保険制度を構築している。
下図は、OECD(経済協力開発機構)に加盟しているTPP交渉参加国の公的医療保険のカバー率を示したものである。日本、オーストラリア、ニュージーランド、カナダでは公的医療保険で医療費が100%賄われている(国民皆保険)。また、メキシコやペルーも一部カバーされていない層が存在しているが、8割前後が公的医療保険で賄われている。統計数値は存在していないが、ブルネイ、マレーシア、シンガポール、ペルー、ベトナムにおいても税支出などで国民の医療費軽減の制度が存在している(詳しくは外務省資料を参照)。
これに対して、米国では、公的医療保険がカバーするのは、低所得者向け「Medicaid」と高齢者・障害者向け「Medicare」の対象者に限られており、国民全体の3割程度にすぎない。企業経営者や被雇用者は、企業が提供する民間の医療保険に加入しており、これらを合わせて米国の医療保険対象者は約85%となっている。
近年では、米国においても国民皆保険制度導入の必要性が議論されており、公的医療保険分野への民間参入がTPP交渉の対象になるとは考えられない。事実、2012年3月に来日したウェンディ・カトラーUSTR代表補は、出席したパネルディスカッションにおいて「TPPは日本、またはその他のいかなる国についても、医療保険制度を民営化するよう強要するものではありません」と明確に述べている(在日米国大使館のWebサイトを参照)。
議論を混同すべきではないのは「公的医療保険」と、民間の保険会社が提供する「補完的な民間医療保険」の役割は異なるという点である。既に日本市場においても、例えば公的医療保険でカバーされない高度医療に対応する民間保険商品は販売されている。しかし、これはあくまで補完的な保険商品であり、公的医療保険の領域そのものを自由化するということとは意味が異なる。
いずれにしても、前回整理したように、政府が唯一のサービス提供者となり、税金を投じることによって利益を目的とせずに運営されている公的医療保険制度は、TPP交渉の対象にはならないのである。
混合診療は解禁されるのか
混合診療とは、「健康保険の適用対象となる医療」と「健康保険の適用対象とならない医療」を同時に受ける場合、健康保険の適用対象となる部分も保険の対象外になるというものである。関税や外資規制のように、外国産品や外国企業のみを対象とした障壁とは異なり、各国の公的医療制度の具体的な中身は、貿易自由化交渉の対象にはなじみにくい。これは、国内のサービス提供者も海外のサービス提供者も同じ規制の下に監督される「内外無差別」の制度であるためである。
事実、前述のカトラーUSTR代表補も、同じパネルディスカッションにおいて「TPPはいわゆる“混合診療”を含め、公的医療保険制度外の診療を認めるよう求めるものではありません」と明言している。これは米国のサービス提供者が混合診療解禁に関心を持っていないということではない。貿易自由化交渉において「内外無差別な国内規制、特に医療制度のような国民の琴線に触れるような分野の規制を対象にすることは、これまで米国が体験してきた規制改革要望の経緯も踏まえて極めて困難だ」ということを意味している。
特に米国の場合、公的医療保険のカバー率が低く、民間の自由診療によって医療が提供されている。そのため、「混合診療」という概念が希薄である。受診を希望する医療サービスが、自らが加入する民間の医療保険の対象となるかどうかという捉え方はあるが、「混合診療」という考え方とは全く異なる。しかし、世界の多くの国が公的医療保険制度によって公費を支出している状況において、そして米国自身が公的医療保険制度を導入すべきかどうか議論を行っている現在、他国の制度を修正するよう迫ることは困難であることを、米国自身が気づいている。
混合診療のような国内制度については、自国内においてその是非をしっかりと議論し、残すべきものは残し、改善すべき点は改善するというスタンスをとれば良いのであり、貿易自由化交渉に影響されるということを懸念することは無用である。
企業の病院経営は進むのか
2011年版までのUSTRの「外国貿易障壁に関する年次報告書」には、日本の投資規制として「営利目的の病院サービスの提供など、医療サービス市場へのアクセスには厳しい規制がある」との指摘が存在していた。こうした指摘は、これまで米国政府の一貫したスタンスであったが、2012年版の年次報告書から記述がなくなった。「問題があると思っているのであれば、相手が制度を変更する気がなくとも、その問題について指摘し続ける」というのが米国の基本姿勢であるので、上記のような記述の削除は、米国が自らの主張の妥当性について変更を加えたと見ることができる。
そもそも、日本において民間企業が病院経営に参入すること自体についての制限は存在していない。世界貿易機関(WTO)の「サービスの貿易に関する一般協定(※)」におけるサービス貿易自由化に関して、日本は「モード3(業務上の拠点を通じてのサービス提供)については「外国資本の参加に関する制限は存在していない」と明示している。その上で、企業の病院経営に関し、日本の医療法(1948年7月30日公布)では、医療法人の経営トップは原則医師でなければならない(第四十六条の三及び四)。そして医療法人は、医師などスタッフの給与や病院施設の拡充のための投資を除き、剰余金を利益として株主配当してはならないことになっている(第五十四条)。
※:GATS上では、4つの形態(モード)での取引を「サービス貿易」と定義。
これらの規定はいずれも、人の健康・命を扱う医療サービスが、営利目的となって健康や命がないがしろにされることを防ぐことに大きく貢献している。こうした規定の意義は、米国といえども明確に反論することは困難であろう。
もちろん、日本が世界第3位の経済大国であり、先進国の中でも高齢化率が最も高く、世界的にも大きな医療サービス市場であることが、米国の医療サービス企業の関心の的になっていることは言うまでもない。
その米国では、病院経営は経営学修士(MBA)を取得した経営のプロが運営し、医師や看護師は専門職として技能を提供するという形が取られている。病院経営はIT企業や自動車会社の経営と本質的には同じという位置付けである。対して、日本では戦後間もなく制定された医療法に基づき、病院は医師により経営され、国民皆保険制度が確立され、世界で最も長寿な国が作り上げられてきた。もちろん、日本の医療サービスに改善すべき点が全くないということではないだろうが、これらの事実を踏まえて、米国政府も営利病院の市場参入を要求することが、貿易自由化交渉を通じた政策協調の中では得策ではないと判断したものと思われる。
企業の病院経営、特に株式配当できる営利目的の病院経営を認めるのかどうか。これも混合診療の問題と同じく、日本国民がその意義と問題点をしっかりと議論した上で結論を出すべきものであり、TPPのような貿易自由化交渉によって判断するべきことではない。
以上、国民皆保険制度、混合診療、企業の病院経営参入の3点は、いずれもTPP交渉によって日本の制度変更が迫られるものではないと整理できる。次回は、交渉対象となり得る「医薬品特許」や「薬価」の問題について見ていくことにしたい。
著者紹介
小田 正規(おだ まさき)青山学院大学WTO研究センター客員研究員
東京外国語大学外国語学部英米語学科卒、慶応義塾大学大学院経済学研究科修士課程修了。1991年に(株)三和総合研究所(現 三菱UFJリサーチ&コンサルティング(株))に入社、通商政策、アジア経済分野の調査に従事。2009年~2012年には内閣官房国家戦略室において成長戦略、TPP交渉参加問題を含む通商政策の立案において中心的役割を果たす。
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