TPP交渉参加で日本の医療は変わるのか?(第5回)
TPP交渉と医療制度改革の議論は切り離すべし
TPPは「米国による“現代の黒船”」と表現されることもあるが、TPP交渉によって日本の医療が大きく変わることはない。日本の医療制度の改革は、国民との十分な議論を経て、TPP交渉とは切り離して考えるべきである。
日本が初めて全日程に参加した第19回TPP(環太平洋パートナーシップ)交渉会合が終了した。「年内妥結」という大きな方向性は確認されたが、交渉妥結に向けて乗り越えるべき課題は数多く残されている。今後交渉が進むにつれて、交渉参加国の自由化にセンシティブな分野も明確になってくる。交渉が越年する可能性も極めて高い。
TPPで日本の医療への影響を整理
前回まで見てきたように、TPP協定交渉は日本の医療に大きな影響を与えるものではない。指摘されている論点の多くはTPP交渉の対象外であり、知的財産権のように交渉対象となり得る分野についても、日本にとって問題となる方向には進まないであろう。
あらためて前回までに整理した論点を一覧にしてみよう。
| 項目 | TPP交渉での扱い |
|---|---|
| 国民皆保険制度 | 交渉対象外 |
| 混合診療解禁 | 交渉対象外 |
| 企業の病院経営 | 既に企業の病院経営は可能である。株式配当は医療法で制限されているが、この点を変更するかどうかは国内問題(TPPによって議論されるべきものではない) |
| 医療関連の知的財産権 | 交渉対象となり得る。ただし、知的財産に関する専門組織、あるいは医療に関する専門組織で議論を進めるべきであり、TPPにおいてはそうした専門組織における議論の成果をしっかりと踏まえるべき |
| 薬価制度 | 日本の制度は外国製医薬品を差別的に扱っておらず、交渉対象となる可能性は低い |
| 外国人医師・看護師などの流入 | 交渉対象外 |
| 国家が企業に訴えられる | 事前通報や相互の情報交流メカニズムを活用することにより、提訴される可能性は低い |
TPPは日本にとって恐れるものではない。ではなぜ、「現代の黒船」といわれるほどTPPが大きな脅威として伝えられるのであろうか。そこには今後日本が貿易自由化交渉に臨むに当たっての課題が隠されているのだ。
米国の主張を継続的にモニターせよ
TPPに代表される、関税撤廃率の極めて高い「ハイレベルFTA」は、米国、カナダ、メキシコの3カ国間で1994年に発効した北米自由貿易協定(NAFTA)が端緒である。米国は、1986年に開始された「関税および貿易に関する一般協定(GATT)」のウルグアイラウンド交渉において設立が決まったWTO(世界貿易機関)の各種協定の中に、最先端の貿易ルールを導入することを主張していた。しかし、米国の思惑の中で実現したものは、サービス貿易や知的財産権など一部であり、「貿易と競争政策」「貿易と労働」「貿易と環境」「投資ルール」などについては、WTOルールに取り込むことができず、NAFTA加盟国という限られた国の間で実現させるにとどまった。
米国の思惑は、限られた国家間で実現した最先端の貿易ルールを世界全体に広げていくことにあり、TPPはその一里塚という位置付けなのである。1995年のWTO発足以来、米国はドーハラウンド立ち上げに当たっての議論に加え、APEC(アジア太平洋経済協力会議)、OECD(経済協力開発機構)といった他の国際機関における議論の中でも、最先端の貿易ルールについて繰り返して主張してきた。NAFTAの発足以降、今日までの20年間に米国が主張してきたことをモニターしていくと、TPP交渉において米国が主張している内容は「とっぴなことでもなく、それほど恐れる必要もない」ことが分かる。
今後重要になるのは、日本国内の通商交渉担当者が、米国の主張を継続的にモニタリングし、米国やその他主要国の交渉担当者との交流を重ねることで彼らの狙いを明らかにするとともに、日本の考えをしっかりと主張して説得し続けることである。そのためには、約2年でローテーションする国家公務員の人事異動、特に通商交渉担当者が全く異なる分野に異動する現在の人事制度を改革し、少なくともTPP交渉が妥結するまで、あるいは国内での批准(国会審議)が終了するまでは、同じ担当者がしっかりと国際交渉や国内調整を続ける体制を構築する必要がある。
国内規制こそがTPPのターゲット
TPP交渉は、関税を全廃するが故に「とてつもなくハイレベルな貿易自由化交渉である」と吹聴されているが、この考え方は本質を捉えていない。なぜなら、既に多くの品目で関税は貿易障壁の役割を果たしていないからだ。
日本がTPP交渉参加の関心表明をした際、米国が事前交渉で日本に突きつけた3点セットである「牛肉」「郵政」「自動車」はいずれも関税の話ではない。牛肉はBSE(牛海綿状脳症)の検査基準、郵政は簡易保険や配送などのサービス、自動車は税制や環境基準などが論点である。まさに「国内規制」こそが、TPPの交渉ターゲットなのだ。関税は貿易障壁のように見えるが、この見掛け上の貿易障壁である関税を一度全て取り払って、真の貿易障壁である国内規制を特定することこそが、TPP交渉の本質である。
日本は、家電や自動車については部品を含めて全て関税がゼロである。それにもかかわらず、外国製の家電製品や自動車がなかなか日本市場に浸透していかないため、米国や欧州、韓国などの海外企業が頭を痛めているのが現状なのだ。流通制度や税制、安全基準や環境基準などをどこまで国際的に調和するか――今後の貿易自由化交渉はこうした点に政策資源をより多く投入していかなければならない。
国際標準化交渉に乗り遅れるな
このように考えると、規制・基準に関する「国際標準化」が極めて大きな意味を持ってくる。貿易自由化交渉において規制・基準についてルールを策定する際、技術的な内容について一から検討を開始するのではなく、専門的な国際機関や多国間交渉の議論を踏まえて一定のコンセンサスを得られつつあるものを、最先端の貿易ルール(国際調和された規制)として認めていくのである。
国際標準化団体としては、ISO(国際標準化機構)が著名である。医療機器・器具や医療情報、病院経営を含めた品質マネジメントシステムなどが既に策定されており、近年では伝統的中国医療などについても議論が行われている。その他、医用電気機器が国際電気標準会議(IEC)において、また医薬品が日米EU医薬品規制調和国際会議(ICH)という医薬品先進三極間で、国際的な基準統一の議論が積極的に進められている。加えて、医療用語では世界保健機関(WHO)、医療関連システムのメッセージ交換では米国のHL7(Health Level Seven)などの国際機関や民間ボランティア団体が、各分野の国際標準化において重要な役割を果たしている。
連載第1回の「交渉開始直前! TPPのどこに注目すべきか」でも指摘した、USTR(米国通商代表部)が年次報告書において指摘している「医療IT」問題は、まさに技術中立性や相互運用性に関して国際基準への準拠が不十分なことが貿易障壁であることを示している。今後の国際標準化の議論に日本の貢献が求められている領域である。
残念なことに、「国際標準化」は、貿易自由化と並んで日本政府が不得意とする交渉分野である。主要国の規制当局担当者と国際会議において頻繁に顔を合わせ、互いに異なる規制・基準を収束させていく作業には、2年のローテーションではとても間に合わない。しかし、この国際標準化の交渉は「人体への安全」「環境基準」「品質表示方法」など、今後の貿易自由化の交渉の中心となる。貿易自由化の交渉と同様、国際標準化の交渉でも確固たる体制を構築し、日本の優れた制度を国際標準とする「したたか」な戦略が求められている。
医療制度改革の議論はTPP交渉とは切り離せ
医療分野は、さまざまな規制・制度が入り組んだ領域である。しかも「人の生命を守る」ために導入されている規制であり、一般的なビジネス活動の規制とは目的が異なることがある。「人の生命」と「ビジネス上の利益」のバランスを判断するのは貿易自由化交渉ではなく、あくまで国内でのしっかりとした議論である。国民が「何が日本にとって最適なのか」ということを納得した上で、制度を守る、あるいは制度を改正する、という結論に達すれば良い。
こうした十分な国内での議論なしに、「TPPという外圧によって、国内制度を変えるべきか否かを議論する」というやり方とは、そろそろ決別すべきときである。この考えの下で貿易自由化交渉を続けてしまうと、常に「国内のどの産業を守るべきなのか」ということが交渉の中心となってしまう。日本の優れた皆保険制度や薬価制度など、むしろこれらの制度を「グローバルスタンダード」として海外に輸出していく姿勢が重要であり、あくまで日本国民の視点に立った改革の必要性を検討した上で、これを貿易交渉に持ち込むべきかどうかを考えるべきである。
TPPは、日本の医療の在り方を考えるに当たって、大きなきっかけとなった。TPP問題をビジネス上の問題としてだけ捉えるのではなく、何が日本国民に最適なのかという視点から、自律的に考えて決断するための契機としていきたい。
著者紹介
小田 正規(おだ まさき)青山学院大学WTO研究センター客員研究員
東京外国語大学外国語学部英米語学科卒、慶応義塾大学大学院経済学研究科修士課程修了。1991年に(株)三和総合研究所(現 三菱UFJリサーチ&コンサルティング(株))に入社、通商政策、アジア経済分野の調査に従事。2009年~2012年には内閣官房国家戦略室において成長戦略、TPP交渉参加問題を含む通商政策の立案において中心的役割を果たす。
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