AI技術との組み合わせが生む相乗効果
量子コンピューティングはもう“実用段階”に IBMが語る「量子技術」の現在
「いつか役立つ技術」という期待にとどまっていた量子コンピューティングが、実用段階に入りつつある。従来のシステムが抱える複雑な計算の限界を、IBMやBoeingはどのように打破しようとしているのか。
2026年5月にIBMが開催したカンファレンス「IBM Think 2026」での発表によると、量子コンピューティングは科学や産業界にとって重要な成果を生み出し始めている。
量子コンピューティングは、量子力学の原理を利用して、従来のコンピュータでは複雑過ぎて解けない問題を解決することを目指す技術分野だ。IBM Think 2026のオープニング基調講演では、AI技術や自社設備と外部クラウドサービスを組み合わせるハイブリッドクラウドと並んで、量子コンピューティングが重要な位置を占めた。
IBM Think 2026の発表では、医療機関のCleveland Clinic、理化学研究所、IBMが、量子コンピュータを用いて「過去最大規模となる生物学的に意味のある分子シミュレーション」を実行したことが明かされた。航空機メーカーBoeingと保険会社Allstate Insranceも登壇し、現実のビジネス課題に量子技術をどう適用しているのかを語った。
長年技術開発が進められてきたものの、量子コンピュータが従来のスーパーコンピュータの性能を明確に上回る「量子超越性」の到達点にはまだ至っていない。これに対してIBMのCEOであるアービンド・クリシュナ氏は、その常識を覆し、量子超越性が年内に達成されると予測した。
「量子超越性は20年後でも10年後でもなく、2026年中に達成される。大方の予測を上回るスピードで、実用性能との技術的な格差は縮まっている」(クリシュナ氏)
目前に迫った「実用化」に向けて、トップ企業は具体的にどのような戦略で量子技術をビジネスに落とし込んでいるのだろうか。新薬開発の前提を覆す、歴史的シミュレーションの全貌とともに解き明かす。
これまでのコンピュータでは解けない難題を解決
Cleveland Clinic、理化学研究所、IBMの3社は、IBMの量子コンピュータと、世界トップレベルの性能を持つ「富岳」および「Miyabi-G」という2台のスーパーコンピュータを用いて、最大1万2635個の原子からなるタンパク質複合体のシミュレーションを実施した。このプロジェクトの成功の要因は、「量子中心のスーパーコンピューティング」を採用したことにある。これは量子コンピュータと従来のスーパーコンピュータを連携させ、単独では効果的に処理できない複雑な問題を解決する計算手法だ。
このプロジェクトは、自然界に存在するものを表現するのに十分な規模のシミュレーションを実行し、実用に耐え得る精度を達成した。新薬開発には通常、基礎研究から承認まで10年以上の歳月と膨大な費用がかかる。科学者が研究の初期段階で分子の振る舞いを確実に予測できれば、開発期間を大幅に短縮できる可能性がある。調査会社Gartnerが2026年5月に公開したレポート「First Take: Quantum Breakthrough ― Cleveland Clinic, RIKEN and IBM Mark the Beginning of the Quantum Advantage Era」によると、バイオ医薬品分野において開発期間の短縮は、独占販売期間を延ばし、競争優位性を飛躍的に高めることにつながる。
IBMの量子コンピューティング部門IBM Quantumで、導入担当バイスプレジデントを務めるスコット・クラウダー氏は、パネルセッションで次のように語った。「量子技術は研究室内での理論上の検証作業という段階を脱し、産業や社会の重要な課題解決に向けた実用的な探求のフェーズに入っている」
イベントにおいて、量子コンピューティングの導入を進めるパネリストたちは、自らの経験や用途の候補、解決したい課題を共有した。Boeingは、新しい耐食性の材料やコーティングを開発している。同社で技術職の最高位であるテクニカルフェロー兼プログラムマネジャーを務めるマルナ・カゲレ氏は、「量子コンピューティングが最大の効果をもたらす」と強調した。米国防総省(DoD)だけでも、腐食の軽減や防止には毎年推定200億ドルもの費用が費やされているためだ。
「現在私たちは、現実の産業で使える規模への拡大に注力している。量子コンピューティングの有用性は明白だが、実用規模に移行する方法を見極める必要がある」(カゲレ氏)
Allstate Insuranceも、従来のコンピュータでは解決が難しい課題、特に相関性の高い意思決定の集まりを処理する分野で量子コンピューティングを活用している。米国全土の住宅は、巨大ハリケーンやゴルフボール大のひょう、大規模な山火事など、地域ごとに多様なリスクにさらされており、これが保険の意思決定に影響を与える。
保険の引き受けにおいてAllstate Insuranceは、不確実な要素から最適な答えを導き出す「確率的最適化」に量子コンピューティングを取り入れている。同社で最高分析およびデータ責任者を務めるエリック・ハルス氏は次のように語る。「従来のコンピュータでは、相互に影響し合う無数の条件を同時に判断することは困難だった。量子コンピューティングを使えば、そうした複雑な組み合わせを丸ごと計算し、最適な答えを導き出すことができる」
700万戸以上の住宅の保険を引き受けるAllstate Insuranceにとって、数学的な精度がわずかに向上するだけでも、膨大な利益が生まれる可能性がある。
「当社はまだ取り組みの初期段階にあり、現在の量子コンピュータの制約に合わせて問題を細かく分割して処理させている」とハルス氏は説明する。「だが現在は、最適化によって直接問題を解決できるようになった。現実世界の在り方により即した形で、全体的に問題を解決するための道筋が見えてきた」
パネルセッションでは、他にも以下の事例が紹介された。
- 資産運用大手Vanguardにおける、確定付利資産のポートフォリオ最適化
- エネルギー大手E.ONにおける、分散型エネルギーシステムの最適化
- バイオテクノロジー企業Modernaにおける、量子最適化手法を用いたmRNA(ワクチンの設計図となる分子)の二次構造予測
- メガバンクHongkong and Shanghai Banking(HSBC)における、社債の取引実行戦略の強化
量子技術の実用化へ向けて
IBMは80台以上の量子コンピュータを稼働させている。学術界、政府、産業界において、世界中に300以上のパートナーによる強固な協力体制(エコシステム)を構築している。
IBMの研究部門IBM Researchのディレクターであり、同社の技術最高位であるIBMフェローのジェイ・ガンベッタ氏は、Cleveland Clinicや理化学研究所とのプロジェクトに関するプレスリリースで次のように語った。「これまで、量子コンピューティングは『いつか役立つ』という期待の域を出なかった。今や科学にとって重要な成果を生み出している。私たちが今回シミュレーションした系は、専門家が現実世界で扱う実物規模の分子だ」
タンパク質複合体のシミュレーションにおける躍進は大きな成果だが、Gartnerは注意が必要だと指摘する。このような処理を他の類似した問題に対しても効果的なものにするには、専用の計算手順(アルゴリズム)の用意とともに、従来のコンピュータと量子コンピュータの連携を向上させる必要がある。
量子コンピューティングがビジネス上の明確な利点をもたらすまでには、まだ数年かかる。AI技術がもたらしたような日常的な用途の広がりや生産性の向上には至っていない。しかし今回のタンパク質シミュレーションの躍進は、企業が抱く量子コンピューティングへの評価を大きく変える可能性がある。
Gartnerの新興トレンドおよび技術チームでバイスプレジデントアナリストを務めるガウラブ・グプタ氏は次のように述べる。「このような実験結果は、技術の進歩を明確に示している。企業は今すぐ本格的に人材や予算を投資すべきだ。技術が成熟するのを待ってからでは遅過ぎる。量子特有の問題解決手法は、従来とは根本的に異なるからだ」
IBMは2016年5月、初の量子コンピュータをクラウドサービスで公開した。つまり、インターネット経由でアクセスできる量子コンピューティングの提供開始から10年目を迎える。このサービスは「IBM Quantum Platform」へと進化した。クラウド型量子コンピューティングサービスは、量子コンピュータを利用できる対象者とその手段を劇的に変化させた。
「インターネットやクラウドサービスを活用する手段がある限り、量子技術はあらゆる人に行き渡るだろう」(ガンベッタ氏)
AI技術と量子技術の関係の深まり
AI技術と量子コンピューティングの関係は、対立するものではなく、互いの弱点を補い、能力を引き出し合う関係にある。
「量子技術とAI技術は競合せず、互いに融合し補完し合う」とクリシュナ氏は語る。「量子技術はAI技術が計算できない領域を解明し、AI技術はその解析結果を取り込んで学習する。これによって、技術の進歩を飛躍的に加速させることができる」
IBMのシンクタンクであるIBM Institute for Business Value(IBM IBV)は2025年に世界28カ国、14の業界にわたる750社の経営幹部を対象に調査を実施し、その結果をレポート「2025 Quantum Readiness Index」にまとめた。これによると、量子技術はより高速な最適化や精度の高いシミュレーションによって、AIモデルの学習プロセスを加速させる可能性がある。一方で、AI技術は量子の作業手順を最適化し、アルゴリズムの設計を導き、量子と従来のコンピュータを合わせたシステム構成全体でメモリなどの計算機能の割り当てを管理できる。レポートによれば、量子技術の導入準備を本格化させている先進的な企業の83%がイノベーションの加速を目的として掲げるなど、実用化に向けた高い期待が寄せられている。
ガンベッタ氏は、AI技術を演算能力を効果的に活用するための道具であり、人間とシステムがやりとりする窓口だと捉えている。同氏は「量子技術によって計算能力を強化されたAI技術を見てみたい」と語るが、その実現には長い年月を要するという。
「もし量子技術がAI技術を差し置いて人間と直接やりとりするようになれば、社会の在り方としていびつだ。主役は常にAI技術やシステム構成であるべきだ。そして量子技術は、その裏側で高度な計算を支える存在でなければならない」(ガンベッタ氏)
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