「佐賀県情報漏えい事件」で再考する学校セキュリティ【前編】
17歳少年が不正アクセス 佐賀県教育システム「SEI-Net」を責められない理由(2/2 ページ)
教育ITで学力向上を目指したSEI-Net
佐賀県はSEI-Netを「先進的ICT利活用教育推進事業」の一環として、県全体における学力向上を実現するための中核要素として位置付けていた。機能は出欠管理や成績処理などの学籍管理、保健管理などに分かれており、これらの機能を通じて蓄積した情報を専用のサーバに格納する。加えて教科ごとの教材管理など、教員に必要な情報を一元的に管理する。
具体的な機能や使い勝手については、SEI-Netを実際に利用したわけではないので明言を避けるが、要件定義やシステム設計がうまくいっていれば、雑務を含む教員の業務を相当軽減する能力を持つはずだ。さらにSEI-Netに蓄積した情報をうまく活用すれば、教え方に自信のない教員をサポートする仕組みも、近い将来に何らかの形で実現できる可能性もある。
このように、SEI-Netの試みは佐賀県のみならず、日本の教育の在り方を大きく発展させるかもしれない重要な一歩なのだ。
学習ログの長期集約が生む価値
学校生活におけるさまざまな情報を集積して管理、活用できるこうしたシステムが教育機関にあれば、非常に大きなメリットをもたらす。例えば、学習者がこれまでに学んだ内容の履歴である「学習ログ」を解析することで、細かな分野別の習熟度を可視化することが可能だ。
もし学習ログを小中学校と高校の12年間を通して管理できれば、その間に学習者が受けた全ての教育内容を集計できることになる。だが現状では、各学校がばらばらに学習ログを管理するのが一般的だ。しかも、ここでいう「管理」は単に「保管」するという意味であり、保管した貴重な情報を活用することはなく、ただ置き捨てているにすぎない。
加えてこの仕組みでは、小学校と中学校、高校それぞれの卒業のタイミングで学習ログの集計がいったん終わってしまい、連続性がなくなってしまう。中高一貫校などの一貫教育校は例外としても、貴重な学習の結果や習熟度のデータが、最低でも小学校、中学校、高校の3つに分割されてしまうのだ。転校があると4つ、もしくはそれ以上に分割されてしまうことも珍しくない。そもそも進級で教員が変わる度に、それらのデータを確実に継承することさえ、現状では十分にできていない可能性がある。
もし高校だけではなく、小中学校を含めた全ての児童/生徒や教員、保護者の利用を見据えた学習ログ管理システムが開発できれば、その情報活用の効果は飛躍的に向上する。学習者の情報を集約して管理できれば、各学習者の教科別の得意不得意だけでなく、その枠を超えた新たな能力や才能、可能性が見えてくる。これらを見過ごすことなく伸ばすことができれば、日本はもちろん世界でも活躍できる人材を育てやすくなるはずだ。
こうしたデータを学習者の目標や夢を実現するために活用し、足りない部分は補完し、優れている部分はより伸ばすような仕組みができれば、学習者にはより具体的な目標ができる。その学習意欲の向上効果は計り知れないだろう。これが実現すれば、教育機関のIT導入で学力が向上するという荒唐無稽とも思われるロジックも、夢物語ではなくなるのだ。
SEI-Net誕生の影にある教育ITの“限界”
企業と比べて教育機関のIT導入の本格化が遅れた背景には、実は大きな課題があった。端的に言うと教育とITは、そもそもあまり相性が良くないのだ。
ITが早期に普及したのは、銀行の金融情報のオンライン化や工場の生産管理のような、ミスや無駄の削減や効率の向上が実現しやすい分野だった。効率化によるコストダウンは、非常に費用対効果が分かりやすい。費用対効果がはっきりしていれば「どちらが得か」という簡単な論理でIT導入の根拠になり得る。
対して教育機関は、暗黙知やノウハウを多用したり、多くの例外処理が必要になったりする非定型業務が中心で、システム化できる部分はそれほど多くない。そもそも、教育に「どちらが得か」という考え方はなじまない。そのためシステム化の対象も成果も明文化しにくいのだ。システムの導入には、当然それなりにコストが掛かる。校舎のような設備と教員の人件費以外に、コストを掛けようという機運がそれほど高まっていない現在の日本の教育では、最初からIT導入で効果を上げることはかなり厳しいと言わざるを得ない。
教育機関で発生するこうした業務は、システム業界では“人間系”などと呼ぶことがある。「システムが苦手としていてITで効果を出すのが難しく、人間が実行しなければならない業務」を示す言葉だ。進路指導1つを取っても、各学習者の目標は当然ながら異なる。そのプロセスで効率を追求しても良いことはそれほどなく、むしろきめ細かな指導を損なうといった弊害が生じる可能性がある。
明治時代の近代教育制度、江戸時代の寺子屋制度など、日本では歴史的な取り組みを経て、教員の教育ノウハウが古くから蓄積されてきた。その教育を受けた蓄積が、経済協力開発機構(OECD)の学習到達度調査(PISA)などの指標で、日本の成績が長年トップクラスだったということにつながったのだろう(近年は多少スランプ気味だったが)。
単に教室にIT機器を導入するだけでは、日本が教育IT活用で目指す学力向上を実現することは到底できない。もちろん電子黒板や無線LAN、タブレットなどの授業用のIT機器導入は無駄ではない。こうしたIT機器の活用で、これまでよりも表現力豊かに授業ができるようになるだろう。だがそのことが、そのまま学力向上に直結するほど、教育は単純ではない。
だからこそ佐賀県は、教室のIT化によって得られた成果をデータとして蓄積することで、そのデータを活用して学力向上に役立てることをいち早く目指した。これを実現するために同県が構築したのが、校務管理、学習管理、教材管理を一体化したSEI-Netだったのだ。
授業用システムに限定しない佐賀県の統合的な教育IT活用の方針は、教育関係者のこうした思いを県内の教育インフラとして整備した、1つの現実解だ。2013年という早期から他の都道府県に先駆けて、こうしたシステムを構想だけではなく導入までこぎ着けていたことは、称賛されてよいだろう。
今回発生した不正アクセスによる情報漏えいは、このような素晴らしい成果の全てを打ち消してしまう可能性すらある。これは佐賀県だけでなく、今後10年の日本全体の教育にも大きく影響を与えかねない由々しき事態だ。だからこそ教育関係者は、この事件やその先にある教育IT活用の課題を知っておかなくてはならない。日本の教育とその先ある日本自身の将来の希望の光を、この一件で消してはならないのだ。
次回はこの不正アクセス事件のいきさつや原因、その先の課題などを詳らかにする。
Copyright © ITmedia, Inc. All Rights Reserved.
この記事の著者
関連記事
新着ホワイトペーパー PR
-
製品資料
[株式会社MatrixFlow] 「物流リソース最適化」ガイド:人員・配車・傭車を出庫依頼の確定前に決めきる -
製品資料
[株式会社キーエンス] なぜRPA導入は頓挫する? シナリオ作成の壁を乗り越える解決策とは -
製品資料
[株式会社セールスフォース・ジャパン] 「CRMは設計と無関係」は本当か? PLMとの融合で実現する高速開発 -
事例
[日本ヒューレット・パッカード合同会社] AIエージェントの時代にどう備える? 「新たな働き手」を支える3要素とは -
製品資料
[日本ヒューレット・パッカード合同会社] “横並びの自動化”から脱却、AI活用で生産性と競争力を高める秘訣
こんなメディアも見られています
TechTargetジャパンに関連する情報をお探しであれば、こちらのメディアもお役に立てるかもしれません。
ベンダーコンテンツ PR
From Informa TechTarget
SpecialPR
アクセスランキング
-
1
なぜ「全社配布Copilot」は使われないのか? 失敗に学ぶAI定着
-
2
法務と開発者で「言葉が通じない」問題 トヨタやソニーが語るOSS管理の真実
-
3
なぜ「Gemini 4 Argon」は出遅れたのか? Googleが狙う“逆転のシナリオ”
-
4
損保ジャパンはなぜ「COBOL」を捨てなかったのか? 脱メインフレームの真相
-
5
情シスの約8割が転職や退職を意識 調査で分かった“辞めたくなる最大の理由”
-
6
ChatGPTは“検索しまくり”でGeminiは“淡泊”? データが明かすAIの裏側
-
7
情報漏えいはなぜ繰り返されるのか 今すぐ見直すべき「境界」
-
8
「Wi-Fi 7」経由でWindowsが乗っ取られる? 最高権限奪取の恐怖
-
9
「結局使わなくなる」Microsoft 365 Copilotを半年で定着 キリンの3施策
-
10
「中堅・中小企業のネットワーク・セキュリティ運用実態」に関するアンケート
ホワイトペーパーランキング PR
-
1
不審メールの経路や見せ方に変化? 2026年夏の3事例から見えた動向と対処方法
-
2
家庭用Wi-Fiルーターの業務利用は危険? 避けるべき理由と具体的な対策
-
3
Microsoft 365を安全に運用 うっかりミスやサイバー攻撃に備えるデータ保護術
-
4
財務部門がAIを最大限に活用する方法 無駄のない戦略的リーダーシップへの道
-
5
LLMが兵器化? 元FBI高官が鳴らす警鐘とセキュリティツール統合のポイント
-
6
「オンプレミス回帰」せざるを得ない“合理的な理由”
-
7
なぜRPA導入は頓挫する? シナリオ作成の壁を乗り越える解決策とは
-
8
生成AIを開発に導入しても効果が見えない? 実証実験で分かった成果と課題
-
9
経産省DX指針から読み解く、受発注業務デジタル化ロードマップ
-
10
HDDを使わない「SSDオンリー」が無謀なのはなぜ?
TechTargetジャパン SNS
インフォメーション
注目情報をチェック
TechTargetジャパンをフォロー