法律家が語る医療クラウド普及の鍵とは
医療クラウドの必要性、そして法が忘れてきたもの
クラウドによる医療情報の外部保管が注目される中、その普及に影響を与えるのが情報を保護するための法的な権利だ。医療クラウドの普及を研究している法律の専門家が医療クラウドに関する法制度の現状や今後を占う。
私の医療情報を私自身のために
私たちは、健康なとき(より正確には自分が健康だと思い込んでいるとき)は、自身の医療情報について無頓着なものだ。典型的には、以前医師にかかったときの検査結果やCT画像、カルテなどの情報が挙げられるだろう。
その取り扱いについては、多くの人が情報の「Confidentiality(機密性)」が保護されることを願う程度なのかもしれない。一方、行政に携わる人々や法律家、医療機関の管理に携わる人々は、医療情報の機密性を守ることにひたすら精力を費やすことになるようだ。また、医療従事者の多くが医療情報の機密性だけでなく、「Availability(可用性)」と「Integrity(完全性)」に対して常に深い注意を払わなければならない。
情報セキュリティの基本的な要素といえば、先に挙げた“Confidentiality”“Integrity”“Availability”の「CIA」が挙げられる。残念なことに、私たちの多くは必ずしも、これら全てをバランスよく高い水準で達成しようとしているわけではない。私たちはその立場や置かれている状況によって、どれか1つだけ、あるいは2つまでの要素に気を取られてしまい、残る要素をないがしろにしがちなのだ。
例えば、いざ病気になったり、ケガをしたりすると、私たち自身の命を守り健康を回復するために、自身の医療情報の可用性と完全性の問題を意識し始める。適切な治療を選択するためには過去と現在の医療情報が比較できなければならないし、それらが改変されたり損なわれたりしていない必要があるからだ。
また、医療情報の可用性の問題は、私たちが継続的に同じ医療機関で受診するときはなかなか顕在化してこない。医療機関が相応の期間の医療情報を保存しているからだ。しかし、前回の受診から時間がたっていたり、引っ越しなどの理由で異なる医療機関で受診するときにはこの問題が顕在化する。それでも、私たちの多くはそのことにあまり気が付いていない。以前受診した際の医師からの指摘や指導内容を新しい医師に伝えるのにもどかしい思いをしたり、精密な検査が繰り返されることにうんざりしたりする程度である。だがその背後では、診療コストや医師の時間、患者の時間などの貴重な資源が失われていく。
大規模な災害によって医療機関の建物が被害を受けた場合を考えてみよう。紙に記録されたものであれ、院内サーバに保管されたものであれ、その医療機関内に保管されていた医療情報が失われることになる。だが、大規模な災害が発生した際、慢性症状の患者に対して精密な検査を繰り返している余裕があるとは限らない。こうした状況になった段階で初めて、誰の目にも見える形で医療情報の可用性の問題が顕在化するのだ。私たちは「私の医療情報の可用性を私自身のために確保すること」を怠ってきたのかもしれない。
医療情報の可用性を確保するための現実的な方策は、医療クラウドに医療情報を保管し、必要なときに医師および患者自身がアクセスできるようにしておくことである。
みんなの医療情報を私のために
私たちが医師を信頼するのは、単に医師が医学の知識を持っているからだけではない。何人もの患者に関する“臨床経験”を医師が持っているからだ。実際、患者の多くが「経験の浅い医師よりも、経験の深い医師の診療を受ける」ことを好むはずだ。また、私たちは、医師が常に研さんを怠らないことを期待している。そして、医師は大学で学んだ知識だけではなく、彼ら自身の経験とカンファレンスや研究会、日常の医師相互の研さんで得た知見に照らして日々の診療を行う。私たちは患者として診療を受けるときには、常に他の患者たちの医療情報に依存しているといえるのだ。
要するに、私たちは「私1人で」満足な医療を受けることができるわけではない。また、医療が患者である「私」と「主治医」の2人だけの間で完結しているわけでもない。これまでに医療を受けてきた多くの人々と彼らの主治医が蓄積してきた医療情報があって、初めて「私に対する医療が満足のいくもの」となるのだ。
そして、医師の研さんのためには、医療機関の枠を超えて症例が共有されなければならない。同じ専門職(Profession)として、しばしば医師と対比される法律実務家たちは、判例雑誌や判例集、判例データベースといった媒体を用いて判例(ケース)をシェアしている。もし、彼らが医師による症例(ケース)のシェアに異議を唱えるとすれば、それは驚くべきことだ。
みんなの医療情報をシェアするためには、医療情報が医療クラウドに保管され、必要に応じて医師や研究者がアクセスできるようにならなければならない。このとき、医療クラウドは個々の患者のプライバシーを守ったり、統計的な解析を支援したり、類似する症例を参照しやすくしたりするなど一定の付加価値サービスを組み込んでおく必要がある。
私の医療情報をみんなのために
みんなの医療情報が私を助けてくれているのだとすれば、みんなを助けるために私の医療情報をシェアしてもらうことも当然のこととなる。私の医療情報は、みんなの医療情報の上で成り立っているといえるからだ。そのための第一歩は「私の主治医が、私の医療情報を医療クラウドに保管すること」だ。
もちろん、私たちそれぞれのプライバシーが尊重されなければならないのは、当然のことだ。医療情報が特に機微性の高い情報であることは、よく知られている。もっとも私の医療情報を私自身のために保管する場合、医療情報の匿名化は意味を成さなくなる。また、症例のシェアや統計的手法による分析などのために医療情報を匿名化することも多い。しかし、その場合は復元不能な匿名化をするわけにはいかず、後で情報の妥当性を検証したり、経時的なフォローできる必要がある。特定のある瞬間における統計的な情報を把握する場合と異なり、検証やフォローを困難とするような匿名化は、医療情報をシェアする目的に反することに注意すべきだ。
医療の法が想定していること
医療関連の法では、医療情報の取り扱いをどう定めているのだろうか。医師法20条を例に挙げてみよう。
医師は、自ら診察しないで治療をし、若しくは診断書若しくは処方せんを交付し、自ら出産に立ち会わないで出生証明書若しくは死産証書を交付し、又は自ら検案をしないで検案書を交付してはならない。但し、診療中の患者が受診後24時間以内に死亡した場合に交付する死亡診断書については、この限りでない。
上記の条文では、医師は常に、患者の現在の状態を医師自身の知識や経験、患者の過去の状態と比較することが求められていることを意味する。医師が診断するに当たり、過去の症例を利用することが当然の前提となっている。また、医療情報の可用性の確保については、保管義務という形で限定的ではあるものの、古くからの規定がある(医師法24条2項など)。こうした条文は、患者の目線ではなく、医師を管理する国家の側からの目線しか持ち合わせていない。患者自身が医療情報の可用性を求める権利は定められているわけではない。
情報を保護する法が想定していること
これまでわが国の法律家たちは「情報の保護といえば、排他的な権利がもっぱらである」と信じこんできた。つまり「情報を使うな、情報を消せ」という姿勢であり、「間違った情報を訂正せよ」と求めるところまでが情報の保護であった。個人情報についても、従来はプライバシーを守るために「使わせない」ことばかりを考えてきたのだ。だが、このままでは大きな不都合が残る。情報を「使うな」とはいえても、「使えるようにせよ」(可用性を保証せよ)とはいえなくなる。医療情報は、秘匿したい情報でもあると同時に「使いたい」「使ってもらいたい」情報でもあるからだ。
医療情報の可用性を保証するためには、患者自身が医療情報に対してもっと強い管理権限を持てるようにする必要がある。そのような権利は、所有権に近いものとなるだろう。医療クラウドという技術的なインフラストラクチャが必要なのはもちろん、そこに“魂を込める”ためには、「患者自身が医療情報に対してどのような管理権限を持つべきか」について、過去の法体系に捉われない議論をしていかなければならない。
筆者紹介
寺本振透 九州大学大学院 法学研究院 教授
1963年生。84年司法試験合格、85年東京大学法学部卒業。2007~2010年東京大学法科大学院教授、2010年から現職。特定NPO法人エルピーアイジャパン監事、福岡シュタイナー学園友の会監事。知的財産法を含め、社会の中で情報が広くシェアされるための仕組みを研究。医療クラウド普及のための研究と発言はその一環。
著作
- Tearamoto, S & Jurcys『Intermediaries, trust and efficiency of communication - A social network perspective』(Springer「Networked governance, transnational business and the law」:2014年)pp.99~126
- 寺本振透『知的財産権のはたらきを探る試み』(「法政研究」79巻3号:2012年)p.938
- 寺本振透『遠隔画像診断に関する法的問題』(「臨床放射線」Vol.57, No.9:2012年)p.1153
Copyright © ITmedia, Inc. All Rights Reserved.
関連記事
新着ホワイトペーパー PR
-
市場調査・トレンド
[コパード株式会社] 約9割が負担を実感 Salesforceのテスト業務に関する実態調査で見えた課題とは -
市場調査・トレンド
[コパード株式会社] 「Salesforce」開発・運用におけるAI活用実態調査レポート -
事例
[テクバン株式会社] 1画面でITサービスデスク業務が完結 太陽ホールディングスに学ぶデバイス管理 -
製品資料
[デジタルサーカス株式会社] ライセンス無料 Drupalベースの「多言語ECサイト開発用パッケージ」の実力は? -
製品資料
[デジタルサーカス株式会社] 日本発グローバル企業用Drupal「Risley(リズリー)」の実力とは?
こんなメディアも見られています
TechTargetジャパンに関連する情報をお探しであれば、こちらのメディアもお役に立てるかもしれません。
ベンダーコンテンツ PR
From Informa TechTarget
SpecialPR
アクセスランキング
-
1
半数がブルーカラー転向を視野に? ベテランエンジニアを追い込む“54歳の壁”
-
2
「Wi-Fi 7」経由でWindowsが乗っ取られる? 最高権限奪取の恐怖
-
3
パッチなしで「今すぐサーバを落とせ」 Kiteworks異例警告の波紋
-
4
LINEヤフーはなぜ「社内の管理者」すら信用しないインフラを作ったのか
-
5
情報漏えいはなぜ繰り返されるのか 今すぐ見直すべき「境界」
-
6
「サイバー犯罪株式会社」に潜入 現地調査で判明した“犯罪者求人”の実態
-
7
OpenAIやAnthropicでさえ制御不能 2026年夏「3大サイバー攻撃」の衝撃
-
8
IT製品の導入に関するアンケート「セキュリティ」編
-
9
なぜ「全社配布Copilot」は使われないのか? 失敗に学ぶAI定着
-
10
見落としが多発、AI普及&データ急増に伴うネットワーク課題の意外な原因とは?
ホワイトペーパーランキング PR
-
1
家庭用Wi-Fiルーターの業務利用は危険? 避けるべき理由と具体的な対策
-
2
Microsoft 365のメールセキュリティ、3つの“死角”と追加で検討すべき対策とは
-
3
システムの保守がモダン化を阻む? 「変えない判断」から脱却する方法とは
-
4
AI駆動攻撃にどう対抗する? 超速の攻撃からエンドポイントを保護する方法
-
5
不審メールの経路や見せ方に変化? 2026年夏の3事例から見えた動向と対処方法
-
6
プログラミング不要で誰でも実現できる、ネットワーク運用管理の自動化とは
-
7
Linux初心者でも知らないとまずい「RHEL」「SLES」の違いとは?
-
8
東大教授と考える、AI時代の「データ主権」「信頼性」「ガバナンス」の在り方
-
9
「IT史に名を残すシステム障害」8選
-
10
最速72分でデータが流出? 最新の脅威トレンドや侵入手法から分かった防衛策
TechTargetジャパン SNS
インフォメーション
注目情報をチェック
TechTargetジャパンをフォロー