Windows Azure、Windowsタブレットによる実証研究も実施
生まれる前からライフログ管理――タブレット活用の電子母子健康手帳が医療を変える
妊婦・新生児の死亡率が最も低いといわれる日本。要因の1つに保護者や医療機関、行政などで情報を共有できる「母子健康手帳」の存在がある。母子健康手帳を電子化し、タブレットで活用する取り組みが始まっている。
出産までの妊婦の健康状況や出産時情報、子どもの小学校就学前までの予防接種や成長状況などが記録される「母子健康手帳」。1965年制定の母子保健法に基づき策定された母子健康手帳は、その原型である1942年の「妊産婦手帳」から70年以上、多くの国民の足跡を記してきた。胎児期からの発育・健康情報が1つにまとめられ、保護者のみならず医療機関や行政などの保健医療関係者とも参照・共有できる貴重なツールだ。
現在、国際的に母子健康手帳が注目され、その導入を目指す取り組みが進められている。2008年5月に開催された洞爺湖サミット(北海道)では、乳幼児の死亡率低減や妊産婦の健康改善の具体的策として母子健康手帳の普及が提言された。また、同年7月には国際協力機構(JICA)が中南米やアフリカなどで普及プロジェクトを開始し、現在はインドネシアやモンゴル、イスラエルなどの地域にも広がりつつある。
さらに、2009年に政府が発表した「デジタル新時代に向けた新たな戦略」で掲げた「日本健康コミュニティ構想」では、遠隔産科医療、電子母子健康手帳の実現に取り組むことが明記されている。その後、2011年に東日本大震災が発生した際、津波に襲われた地域では母子健康手帳の紛失も起こったが、岩手県では母子健康手帳を電子化していたことで、被災地を離れても安全に出産できたという報告もある。
そうした中、日本産婦人科医会は2014年1月24日、「電子母子健康手帳標準化委員会」の設立を発表した。電子母子健康手帳の全国への普及と海外支援を図ることを目的に、母子健康手帳の電子化のための標準化活動を進めるという。
同委員会の活動を内閣官房、厚生労働省母子保健課、総務省情報流通高度推進室などの政府機関、産婦人科医などの医療機関、日本マイクロソフト、インテルなどの企業が支援する。亀田総合病院(千葉県鴨川市)では、妊婦を対象にWindowsタブレットを活用した電子母子健康手帳の実証研究が行われている。
災害にも耐え得る、妊婦や乳幼児を守るネットワークの構築を
「2013年6月、厚生労働省の母子保険課の課長から『東日本大震災における岩手県での取り組みに関心を示した総理官邸から“災害にも強いこのシステムを全国に広げてほしい”と要請を受けた』と相談されたことが設立のきっかけ」
電子母子健康手帳標準化委員会の設立経緯について、母子愛育会 総合母子保健センター 所長 中林正雄氏はこう説明する。中林氏は2004年ごろから大学病院を中心に母子健康手帳の情報を電子カルテシステムで共有する情報基盤の構築を進めている。中林氏は、香川大学 瀬戸内圏研究センター 特任教授である原 量宏氏に相談し、協賛団体や企業を募り委員会を設立したという。原氏は日本遠隔医療学会の会長を務め、「かがわ遠隔医療ネットワーク(K-MIX)」など遠隔医療・周産期医療におけるICTシステムの構築、普及に長年尽力してきた。
中林氏が所属する愛育病院、委員会での活動支援を表明している香川大学医学部附属病院、岩手県立大船渡病院、亀田総合病院などは、経済産業省の2006年度「地域医療情報連係システムの標準化及び実証事業」において香川県、岩手県、千葉県、東京都の4地域を結ぶ周産期電子カルテとモバイル胎児心拍転送システムを連係する実証事業を行っている医療機関でもある。
東日本大震災で妊婦の診療支援にも貢献
周産期医療のICTシステムの活用事例として、岩手県の「いーはとーぶ」が挙げられることが多い。2009年に運用を開始したいーはとーぶは、県内全ての分娩施設(39施設)、24の市区町村(72.7%)で導入されている医療情報ネットワークシステム。県南部の沿岸地域では、県立大船渡病院を中心とするITを活用した遠隔妊婦診療に役立てられ、産婦人科医が常勤していない県立釜石病院、遠野市助産院などと連携し、妊婦が身近な地域で検診を受けられる体制を提供してきた。
東日本大震災では、陸前高田市の市役所にある全ての住民情報や妊婦情報が流されてしまった。だが、いーはとーぶのサーバに妊婦の全ての情報が残っており、対象地域の妊婦情報を紙ベースで陸前高田市に提供。陸前高田市はこの情報を基に妊婦の安否や避難状況の把握、保健指導などに活用した。また、大船渡病院では連絡が取れた妊婦44人に他県や内陸部の受診可能な病院を紹介。そのうち、紹介状がない17人に対しては受入先の病院にいーはとーぶの情報を提供するなど診療支援にも役立てられたという。
母子健康手帳の電子化、その課題は“記録方法の標準化”
1991年に手帳交付事務が各市町村に移譲されて以降、母子健康手帳の記載内容は年々増加している。電子母子健康手帳標準化委員会の委員長を務める原氏は、「母子健康手帳の電子化を進めるプロジェクトは全国各地で進められているが、数値情報を適切に管理できていないことが多い。また、データの記録形式が統一されておらず、相互連携や情報統合が難しい。電子化を進めるに当たり、早急に母子健康手帳の標準的な記録方法を制定する必要があった」と同委員会の活動の意義を語る。
同委員会では、日本産婦人科医会が1999年に定義した「日母標準フォーマット」をベースに、以下3項目の標準化および普及促進を目指す。
- 新生児、乳幼児、学童期の管理に必要な各種パラメーター(体重、身長、体温、その他)の記載
- 新生児、乳幼児管理において重要な感染症予防のための感染症・ワクチン接種情報の電子化(自動識別取り込みや記録、接種に伴う免疫の付与以外の反応である副反応の安全性情報の記録)
- 罹患記録、新生児聴覚検査、発達などに関する記録
日母標準フォーマットは、妊婦管理に必要なデータの特性、施設における運用の差を考慮して9種類のファイルに分けて管理している。
| 内容 | ファイル名 |
|---|---|
| 患者(妊婦)基本情報ファイル | KIHON.*** |
| 妊娠中の外来検診(母体)情報ファイル | KENSIN.*** |
| 超音波検査ファイル | ECHO.*** |
| 血液検査ファイル | BLOOD.*** |
| 骨盤計測ファイル | PELVIMTY.*** |
| 入院診察ファイル | SINSATU.*** |
| 分娩情報ファイル | BUNBEN.*** |
| 胎児心拍数情報ファイル | CTG.*** |
| その他のファイル | 各施設で定義 |
例えば、胎児の心拍数を記録する「胎児心拍数情報ファイル」を標準化することで、規格に従ったデータを伝送するだけで管理サーバに容易に取り込み、電子カルテにスムーズに表示できる(図1)。
「紙の手帳だけでは、紛失のリスクもある。電子化することで、行政機関や地域の診療所などとの情報共有が容易になる。母子健康手帳の記録方法の標準化によって、健康管理だけではなく、妊婦の妊娠糖尿病、低出生時体重や先天性疾患を持つ子どもの成長過程を見守るなど、地域全体で重点的に管理でき、適切なケアが可能になる」(原氏)
タブレット活用で未来型医療の実現を
電子母子健康手帳の実現に求められるシステムとは一体、どのような構成なのだろうか。以下の図2は、原氏が想定するシステムの機能構成を示している。妊娠から出産、分娩後の胎児、新生児、学童期などの成長過程で使われるデータを全て標準的な形式で記録、関係者間で共有する流れとなる。
こうした仕組みにより、産婦人科で診療した周産期電子カルテシステムの情報をWeb母子手帳として小児科医院でも確認できる。さらに、母子とその家族も情報を閲覧できるなど双方向の情報連係にも考慮。「構想自体は以前からあったが、政府の取り組みがなかなか進展していないこともあった。今回新しい一歩を踏み出すことができた」と原氏は期待を込める。
また、参加医療機関である亀田総合病院は、タブレットを活用した電子母子健康手帳の実証研究を開始。システム基盤として日本マイクロソフトがクラウドサービス「Windows Azure」を、インテルがインテル Atom プロセッサを搭載する「Windowsタブレット」をそれぞれ提供した。実証研究に参加する妊婦や育児中の母親は、電子母子健康手帳の管理ツールとしてミトラが提供するWindowsアプリ「Mamaのーと」を活用する。
実証研究では、母子健康手帳に入力された情報を収集、分析して、各医療機関や電子カルテ、予防接種管理システムなどとの母子健康手帳データの連係を目指す(図3)。原氏は「Windowsベースの電子カルテが多く稼働しており、まずは親和性の高いWindowsタブレットから実証に着手する」と説明する。
Mamaのーとは身長や体重などの基本情報や体重増加、成長グラフ、スケジュールの入力、管理を行うアプリ(画面1)。胎児のエコー写真を添付したり、育児に関するコンテンツの閲覧などが可能だ。
日本マイクロソフトとインテルの2社は、Mamaのーとの技術支援やクラウドサービスの開発・運用に関する協力を行う。ミトラは、Mamaのーとの機能の拡充を進め、妊娠中の様子を日記として記録する機能などを追加する予定だ。
母子健康手帳の電子化では、行政機関との連携も重要となる。実際、厚生労働省健康局は2013年3月30日、「予防接種台帳を未接種者の把握などに有効活用するため、電子的な管理を行うことが望ましい」と各都道府県知事に通知するなど、各自治体の電子化促進を求めている。
「ワクチンの種類は多岐にわたり、誤用がないように管理する必要がある。また、小児科の診察ではワクチン接種に関する情報が重要となるため、行政の予防接種台帳との双方向の連係などが求められる」(原氏)
WHO(世界保健機関)ではワクチン別に色分けして識別することを推奨。また、予約票の紙の色とワクチンの色をひも付ける目視確認、バーコードの照合確認によって取り違えを防ぐ仕組みを採用している。電子母子健康手帳標準化委員会では、(1)ワクチンの取り違いの抑止、(2)妊婦や家族、医療機関、行政などの関係者間における情報の記録、閲覧、といった用途にタブレットを役立てることを目指す。
タブレットのカメラ機能を生かせば、バーコード読み取りによる自動登録や取り違えを防ぐチェック機能を実現できる。Mamaのーとでは、タブレットのカメラアプリでバーコードを読み取ると、ワクチンの種類、接種年月日、メーカー、ロット番号、有効期限などの情報を電子母子健康手帳、電子カルテなどに自動登録する仕組みを開発中だ(画像2)。
また、電子母子健康手帳で接種情報を取得する際に投与間隔のチェック機能を設けることで、安全・安心なスケジュールで予防接種を受けることができるようにする予定である(画像3)。
原氏は「単に紙の情報を電子化するのではなく、標準的なフォーマットに記録することであらゆる医学の発展に役立つのではないか。標準化が進めば、日本国内だけではなく海外の支援活動にも応用できる」と語る。
生活習慣病の疾病素因分析も可能
母子健康手帳の電子化の意義について、早稲田大学 総合研究機構 研究院教授 医学博士 福岡秀興氏は「電子母子健康手帳は、世界中の多くの研究者が強く望んでいながら手に入れることができなかった貴重なデータを得ることができる」と語る。
福岡氏によると「世界各地で生活習慣病患者の増加が問題視され、その対策のために経済発展が阻害されている国も存在するなど、生活習慣病の予防が国家の中心課題になっている」という。その解決の糸口として注目されているのが、1986年に英国のDavid Barker氏が提唱した「成人病胎児期発症起源説」。多くの医学的な調査の結果で正しいと認められ、研究者の多くが胎児・乳幼児期のデータを収集しているという。しかし、紙媒体の情報しか手に入らないと説明する。
「電子母子健康手帳によって研究に必要な情報がデータベース化されることで、疾病素因の分析が進む。また予防的介入、経済的な発展にまでつながり、新しい医学の概念を日本から発信できるなど、非常に大きな成果が期待できる」(福岡氏)
発展途上国の妊婦健診の受診率の向上にも
国立成育医療研究センター 成育政策科学研究部 部長 森 臨太郎氏は「発展途上国では、妊婦健診の受診率を向上させることが難しい」と話す。森氏は2007年からモンゴルの保健省とともに、日本の母子健康手帳をベースとする母子健康手帳(紙媒体)の導入評価の研究に取り組んでいる。妊婦健診の受診率はその家庭の経済状況に影響を受けやすく、多くの発展途上国で受診率の低さが課題になっている。しかし、モンゴルでは「母子健康手帳を受け取った妊婦は経済状況にかかわらず妊婦健診の受診率が増えた」という。
また「モンゴルの遊牧民の多くが保有している」(森氏)という携帯電話は、ASEAN、アフリカ諸国でその普及率が上昇している。「携帯電話のインフラを活用した電子母子健康手帳サービスが普及することで、多くの妊婦や子どもの命を救う可能性が高まる。ソフト(サービス)面とハード(インフラ)面をパッケージ化して提供することで、医療安全の向上にも貢献できる可能性がある」と説明。日本政府が成長戦略の柱の1つとして掲げる医療サービスの海外展開にも有用であるという見解を示した。
今後1年以内をメドに標準化の様式を策定
医療の発展に役立つとはいえ妊婦は、自身の情報が行政機関などに提供されることをためらわないのだろうか。中林氏によると、「日本赤十字社医療センターが3000人の妊婦を対象に情報提供の同意を求めたところ、反対した患者は1人もいなかった。医療の安全性の向上、発展のために役立つなら提供してもよいという声が多かった」という。
電子母子健康手帳標準化委員会では、実証研究などを通じて今後1年以内をメドに標準化に関する基本的な様式を策定する考え。その後、医療情報システム開発センター(MEDIS-DC)を中心に関係省庁への申請などを実施する予定だ。日本発の母子健康手帳が今後、どのように医療の発展に貢献できるのかが期待される。
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