AIの普及により、SAPはERP内に蓄積された膨大なビジネスデータの開放を迫られている。長年「閉鎖的」と評された王者は、いかにして「データの聖域」を守りつつ、AI活用の基盤を整えようとしているのか。
20世紀後半の歴史書で、ミハイル・ゴルバチョフ氏は、改革を通じてソ連を救おうと試みた結果、図らずもその解体をもたらした人物と記されるのが一般的だ。
同氏が主導した主要な改革のうち、「グラスノスチ(情報公開)」はおおむね機能した。しかし、「ペレストロイカ(再構築)」は拙速な変革が経済的破綻を招き、最終的に閉鎖的な社会への逆戻りを許した、不適切な施策だったと広く見なされている。
先日、フロリダ州オーランドで開催されたSAPの年次カンファレンス「Sapphire」を取材していた際、歴史好きの筆者の脳裏にはこのアナロジーが浮かんでいた。SAPは、顧客が自社プラットフォーム上でAIを成功させるために必要なデータインフラ戦略を推し進めている。同イベントでは多数の新製品やアップデートが発表され、年内の提供開始が約束された。
AIの波を乗りこなし、それに飲み込まれないよう圧力を受ける中で、同社はかつてない決断を迫られている。創業から53年にわたり、顧客がSAPのERPシステムに蓄積してきた膨大なビジネスデータに、これまでにないレベルの「開放性」を提供しなければならないのだ。
こうしたデータと、それにひも付く洗練された業務プロセスは、AI時代においてSAP最大の強みとなる可能性がある。SAPの経営陣もカンファレンスでその正当性を主張し、AIという逆風を乗り切るための「防壁」だと強調した。しかし、AIは多くの場合、SAP以外のデータへのアクセスも必要とする。そのため、SAPのERPに収められた情報やノウハウは、かつての閉鎖的でモノリシックなシステム時代よりも、はるかに大きなデータプールの一部として機能しなければならない。
これはSAPにとって極めて困難な状況を意味する。「王冠の宝石」ともいえる貴重なデータを保護しながら、同時にアクセシビリティーを高めるという、相反する課題を突きつけられているからだ。さらにAIの台頭は、SAPに構造的な変化も強いている。あまたのパートナーを含む競合他社が、エージェント型AIアプリケーションの分野で競い合い、企業向けアプリケーションの「AIポータル」としての地位を狙っている。また、データアクセスという課題そのものを解決するソリューションを提供しようとする動きも活発だ。
英Diginomicaの共同創設者であるジョン・リード氏は、「これはSAPにとって最大の転換点だ。インターネットの登場よりもはるかに大きな影響がある」と指摘する。新戦略「自律型エンタープライズ」の裏に潜むリスクと、情シスがデータ連携の未来を読み解く。
展示会場でのSAP幹部へのインタビューや、その後の業界アナリストへの取材からは、ある構図が浮かび上がる。それは、世界中の商取引の約80%を支えているというERPシステムの絶対的な優位性を武器に、AI時代へ全方位で対応しようとする同社の姿だ。
米Enterprise Applications Consultingのプリンシパルであるジョシュア・グリーンバウム氏は、SAPの「機能スタック」の強力さを認める。「SAPはデータ、ビジネスコンセプト、プロセス、そして26の業界にわたる数十年の歴史を有している。彼らはコンプライアンスや規制管理をサービスとして提供している。業務プロセスやエージェント層の下に、こうした機能的・インフラ的なスタックを重層的に備えている点は見逃せない」
SAPのERP上で開発を行い、その組み込みガバナンスやセキュリティを活用することは、開発者にとってデータ課題を解決する上でのアドバンテージとなる。同時にそれは、SAPの必要性を再認識させることにもつながる。
リード氏は、パートナーがSAPのプラットフォーム上でイノベーションを起こしていることを証明することが、同社の戦略で重要になると分析する。
「OracleやSAP、Salesforceといったベンダーに求められるのは、パートナーが自社ビジネスをある程度破壊することを許容することだ」とリード氏は語る。エージェント型アプリケーションによって自社のシェアが一部奪われるにしても、それが外部の競合ではなく、パートナーの手によるものである方が望ましいというわけだ。同イベントで拍手喝采を浴びた「AIパートナーへの1億ユーロ投資」という発表は、SAPがパートナーエコシステムの強化の必要性を痛感している証左といえる。
一方で、米Constellation Researchのバイスプレジデント兼プリンシパルアナリスト、ホルガー・ミュラー氏は、SAPの過去の失策を指摘する。かつてSAPがモバイルアプリケーションを持っていなかった際、当時のビル・マクダーモットCEOが突貫工事を命じたが、「それらは結局、使いものにならなかった」とミュラー氏は振り返る。
今回の新しいAIエージェントの開発手法も、それに似ているとミュラー氏は懸念を示す。開発者をドイツのワルドルフ本社やカリフォルニア州パロアルトのオフィスに集め、2週間缶詰めで開発させたという。「その成果が本物かどうかは、時が経てば分かるだろう」
AI主導の変革はポジティブな効果をもたらす一方で、AIアーキテクチャのあらゆる階層で、SAPを競合の脅威にさらすことにもなる。例えば、米BoomiやServiceNow、米UiPathといった統合・ワークフロー・ビジネスプロセス管理(BPM)のベンダーは、エージェントのガバナンスやオーケストレーション層の提供に動いている。Googleもオーケストレーションの分野で選ばれており、米Anthropicの「Claude Cowork」エージェントは、企業向けアプリケーションのユーザー体験(UX)で支持を広げている。
「誰もが、他社の資産をも含めて管理できる立場になろうと画策しているのだ」とリード氏は述べる。
SAPやOracle、WorkdayといったERPの主要プレーヤーは、こうしたシナリオを想定済みだとリード氏は付け加える。「彼らはAnthropicのような企業に、正確な情報が必要な場合はSAPやWorkday、Oracleのエージェントを呼び出すべきだと主張できる。自分たちでデータを引き出すよりも、はるかに優れた結果が得られるという理屈だ」
開放性への移行により、ERPベンダーは他社との協調を余儀なくされている。リード氏によれば、「SAPは、完全にオープンなベンダーであると見なされるよう努めているが、歴史的ないきさつもあり、苦戦している面がある」という。
メッセージの矛盾も混乱を招いている。Sapphireの3週間前、SAPは新しいAPIポリシーを公開し、SAPが承認したチャネル以外からサードパーティーの自律型エージェントがデータにアクセスすることを制限した。
「データの通行料を取り、接続を制限するようなまねをすれば、顧客の反発を招くだろう」とリード氏は警告する。その一方で、近年のSAPによるデータ関連の買収劇は、同社が開放性を高めようとしている努力の表れでもあると評価する。
SAPのデータアナリティクス部門プレジデント兼最高製品責任者のイルファン・カーン氏は、Ariba、Concur、SuccessFactorsといった買収したプラットフォームのデータを取り込んできた内部の努力こそが、AI時代のサードパーティーデータの要求に応える準備となったと語る。
「当社には、長年のERPの伝統を通じて構築された、複数の業界を支える洗練されたデータモデルがあった。その後10年間で、550億から600億ドルを投じてSaaS企業を次々と買収した」とカーン氏は説明する。
SAPは、ERPとこれらSaaSのデータモデルを調和させるため、主要なデータプラットフォームである「Business Data Cloud(BDC)」を開発した。その中核となるのが「SAP data products」だ。これは、販売注文やサプライヤーデータといった一般的なビジネスレコードを、データ、アルゴリズム、メタデータとともにパッケージ化した資産で、BDCを通じて共有を容易にする。
もう1つの大きな進歩は、BDCに追加された「ゼロコピー共有」機能だ。「データを物理的にコピーする必要はない。BDC環境に置くだけで、SnowflakeやDatabricksといった外部環境から、あたかもローカルにあるかのようにアクセスできる。SharePointサーバのような仕組みだ」とカーン氏は胸を張る。
ミュラー氏は、インメモリデータベース技術「HANA」のクラウド版をBDCへ移行させるという発表を、残された課題を解決し得る重要な進展だと評価する。「エージェントは、データを記録するために軽量なトランザクションデータベースを必要とする。HANAは軽量ではないが、SAPが持つ唯一の武器だ」。HANAが標準機能で容易にデータを複製できれば、トランザクションデータをBDCに移動させることができ、新たなデータ製品をゼロから構築する手間を省けるという。
Sapphireで、SAPは自社の戦略を「自律型エンタープライズ(Autonomous Enterprise)」を構築するための道筋としてリブランディングした。しかし、アナリストからはこの名称の妥当性に疑問の声が上がっている。人事技術アナリストのジョシュ・バーシン氏は、SAPが構築しようとしているアーキテクチャ自体は高く評価しつつも、メッセージとしては「最良とはいえない」と評した。
そもそも「自律型エンタープライズ」を構築できるとして、それを望む企業がどれほどあるのだろうか。
リード氏は、この言葉が顧客にどれだけ響くかは未知数で、むしろこのフレーズは、SAP自身を鼓舞するために機能している側面が強いという。「顧客は自社のペースで、最も効果的なプロセスにAIを適用したいと考えている。その一方で、技術による代替を危惧する従業員の懸念にも配慮しなければならない」
アナリストたちは、AIを導入するための実用的なツールを提供している点ではSAPを評価している。しかしグリーンバウム氏は、今回の発表の多くは理論的なユースケースにとどまっており、実際に価値を享受している顧客の事例は乏しかったと指摘する。多くの場合、AIそのものよりも、AIのためにワークフローを統合する準備作業こそが、投資収益率(ROI)を向上させる要因になるという。
「AI単体の価値と、基盤となるトランスフォーメーションの価値をどう切り分けるのか。これは今後、極めて大きな問いになるだろう」とグリーンバウム氏は締めくくった。
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