仮想現実(VR)は今、医療現場に導入されてさまざまな治療に成果を挙げている。VRの可能性、そして課題とは何だろうか。
今、6階のバルコニーの縁ぎりぎりに立っているところを想像してほしい。少し身を乗り出し、吹き抜けになっているアトリウムをそっとのぞき込むと、下の階のバルコニーや1階のフロアを歩いている人々が遠くに見える。
そこであなたはバケツを持ち上げ、その中に入っていたボールをその空間に投げる。ボールがアトリウムに落ちていくのを見つめ、ボールを全部投げたついでにバケツも投げ落とす。そのバルコニーには、あなたを押しとどめる手すりがなぜかないので、あなたはバルコニーの先へと一歩踏み出す……。
これは仮想現実(VR)ヘッドセットを装着しているために起こっているだけで、あなたはオックスフォード大学(医学部)精神科の1階のオフィスにいることをよく承知している。おまけに、空中を泳ぐクジラなど、アトリウムが現実のものではないことを示す視覚的な手掛かりが与えられていたとしても、バルコニーから足を踏み出すことには大いに抵抗を感じるかもしれない。
このVR環境は、意図的に本能的な感覚を想起させている。つまり、高所恐怖症の治療を支援する目的で設計されているのだ。この環境は、臨床心理学を専門とするダニエル・フリーマン教授が、バルセロナ大学の研究者たちと協力して構築したものだ。このVR環境には、ユーザー(患者)にゲーム感覚で恐怖に立ち向かってもらえるように誘導する、バーチャルインストラクターも登場する。
セラピストが不足がちである現状を踏まえ、バーチャルインストラクターやその他のVRテクニックを導入することによって、患者が精神疾患の治療を受けやすくなるとフリーマン教授は話す。
「VRは本質的に、何百万人もの人々それぞれに最適なセラピストを提供できるようになる可能性を秘めている。これなら世界を変えられると思う」
同教授は既に、被害妄想の治療手段にVRを試験導入している。オックスフォード医療NHS基金トラスト(注)でその疾患の治療を受けている複数の患者に、2種類(地下鉄の車内とエレベーター)の仮想環境を合計30分間体験させた。どちらの環境でも、患者は恐怖の対象である群衆の中に自分も強制的に加わるという設定になっている。そして半数の患者は、VRで再現された「大勢の他人」に自分から近づいたり見つめたりして、向き合うように促された。
この研究結果は学術誌『British Journal of Psychiatry』(英国王立精神医学会発行)に掲載された。それによると、治療の結果、患者グループ15人のうち8人は、被害妄想の正式な基準を満たさなくなるほど症状が軽減されたという。また、高所恐怖症の患者向けの環境も慎重に設計され、先述の屋内アトリウムの設定が採用された。大半のユーザーが、現実の世界で経験しそうだからだ。そのVR環境には、フェンスや手すりが一切ないバルコニーに加えてエレベーター、エスカレーター、ハシゴもあり、さまざまな方法で患者を高さに慣れさせるように工夫されている。
このシナリオには、さらにゲームや得点システムも追加される。得点システムは空飛ぶ黒板の形状になる予定だが、今のところ単に「オラ」(Hola:スペイン語で「こんにちは」の意)と呼ばれている。一方アトリウムでも、ボールが空間に浮かびクジラが空中を泳いで、空間の立体感を演出している。ただしフリーマン教授によると、クジラはプログラマーの発案によって加えられたもので、面白いのでそのまま残されたという。インストラクターは現時点ではのっぺらぼうのロボットだが、より人間らしい外見に変えられる可能性が高い。
フリーマン教授は最近、VRを精神疾患の治療に過去20年間応用してきたことの評価を、他の研究者との共著の形で論文にまとめた。その論文によると、VRは主に不安障害の暴露療法(エクスポージャー)に使用されてきた。さらにこの論文は、物質関連障害、摂食障害、性嗜好(しこう)障害など、他の分野への応用の可能性や、(VRの)使用状態の評価にも言及している。
全般性不安障害の治療においては、VRの効果はやや薄いかもしれない。だが、現実の環境の中で患者の問題の原因となる要因が何であったとしても、VRは治療に有効なはずだとフリーマン教授は主張する。同教授はまた、人前で話すことが難しいなど、より一般的な恐怖症の治療にもVRを応用できるとも付け加える。
これがまだ実現していない理由は単純明快だ。
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