2キロ/10キロのマニュアルが700グラムに
ANAのCA/パイロットを身軽にした「8500台の空飛ぶiPad」
全日本空輸(ANA)は8500台のiPadを導入。客室乗務員やパイロットの業務効率向上に生かしている。iPad導入の経緯や導入効果について、同社担当者に聞いた。
全ての客室乗務員(CA)とパイロットにiPadを配布した全日本空輸(ANA)。配布総数8500台に及ぶiPad導入プロジェクトは、どういった経緯で進んだのか。iPad導入で得た具体的な効果とは。2013年5月に開催したIT総合イベント「スマートフォン&モバイル EXPO春 2013」で講演した、ANAの業務プロセス改革室 イノベーション推進部の林 剛史氏の話を基に明らかにする。
iPad導入の経緯:業務改革のツールとして導入
ANAのiPad導入を後押ししたのは、国際線ネットワーク拡充を目指す中での競争環境の激化だ。成田国際空港と東京国際空港(羽田空港)を合わせた国際線の年間発着枠は増加傾向にあり、2011年度の28万回から2015年には39万回へと140%拡大すると見込まれている。こうした中、ANAは国際線を成長の軸に据えることを決断した。
だが国際線で勝ち抜くための道のりは、決して平たんではない。課題として挙がったのが生産性の向上だ。ANAは、1座席を1キロ輸送するのに掛かるコストを指す「ユニットコスト」が競合他社と比べて高かった。例えば、香港のCathay Pacific Airways(キャセイパシフィック航空)やシンガポールのSingapore Airlines(シンガポール航空)と比べると、ユニットコストは約4倍。「ライバルは、当社の4倍の生産性を持っていたことになる」と林氏は明かす。
国際線で勝ち残るためには、高い生産性を誇るライバルと戦っていかなければならない。「今いるスタッフの生産性を最大限に向上することが急務だった」(林氏)
こうした中、まずANA全社員の半数近くを占めるCAとパイロットの業務効率改善に着手。その手段としてANAが選んだのがiPadだった。2012年4月にCA向け、2012年12月にパイロット向けに計8500台のiPad導入を終えた。
iPad導入の効果:生産性向上を早期に実現
CAのスキル向上、パイロットの情報収集手段の改革――。こうした目的を果たすべく、ANAはiPadを導入した。
CA:マニュアル電子化でスキル習得速度アップ
1人のCAが、より多くの機種に乗務できるようになれば生産性が上がる。また、国際線を成長の柱に据えるANAにとって、国際線乗務資格を持つCAの早期育成も急務だ。一方、従来のスキル向上手段は集合訓練の後、実機での乗務の積み重ねが中心であり、「ビジネスクラスで一人前にサービスを提供できるようになるまで3年かかることも珍しくなかった」(林氏)
iPadの導入に伴い、今まで紙で配布していたマニュアルを電子化。映像や音声をふんだんに盛り込むことで、CAの知識習得速度の向上を目指した。併せて、スキル習得のためにCAに対して実施していた集合訓練を3割に短縮、座学を自己学習に置き換えた。こうした工夫により、「ビジネスクラスで一人前にサービスを提供できるまでに約3年の訓練時間を必要としていたのが、2年に短縮できた」と林氏は語る。
客室乗務員を務め、ビジネスクラスのサービス責任者やインストラクターの経験も持つ山本直子氏は、「マニュアルが紙からiPadへ変わったことで、ストレスなく業務を進められている」と、iPadの導入効果を評価する。「例えば、ドアの開閉操作1つを取っても航空機によって異なり、新人のCAは覚えるのに苦労する。文字や写真だけでなく、映像や音声を交えたマニュアルに変わったことで、習得スピードが上がることを実感している」(山本氏)
紙のマニュアルの重さや頻繁な内容更新の煩わしさを解消できたのも、iPadを導入した効果だ。乗務する機材や緊急時の対応、サービスの情報が網羅されているマニュアルは、とにかく重い。CA向けは3冊で約1000ページ分あり、重さは合わせて2キロもある。その上、マニュアルは常時携行する義務があるという。「2リットルのペットボトルの水を、1滴も飲まずに家を出てから帰るまで持ち歩くイメージ」(林氏)
マニュアルの記載内容も頻繁に変わり、CA用のマニュアルでは年間約600ページの内容が改訂される。新人のCAの場合、勉強のためにマニュアルに書き込みをしたり、付せんを張ったりしていることが多いという。「内容改訂の際、こうした書き込みや付せんを新しいマニュアルに反映するのに1、2時間かかってしまうケースも少なくない」(林氏)
マニュアルの重さと改訂頻度という2つの課題は、マニュアルの電子化で解決した。2キロあった紙のマニュアルが約700グラムのiPadに変わり、持ち運びの負荷が減少。内容改訂時の更新も、付せんや書き込みを維持したまま数分で済むようになった。
パイロット:デスクワークと情報収集を効率化
十分な情報を基に適切な飛行計画を作成し、より高い運航品質を実現することはパイロットにとって重要な役割である。iPadの導入によって、事務所から離れた飛行機の側でも、最新の搭乗人数や気象など高い運航品質の実現に欠かせない情報をタイムリーに取得し、より適切な飛行計画を立てられるようになった。
また、適切な燃料の搭載はコストに直結する。パイロットは最新情報が得られない場合、飛行の安全性を確保するため、搭乗人数や貨物積載数は多めに、天候は悪くなる方に見積もり、余裕を持って燃料を搭載する。iPadの導入により最新情報を得られるようになり、搭載する燃料の量を適正化できた。これによってドラム缶にして年間約28万本分の燃料を節減することができたという。
パイロットの紙マニュアルは、CA以上に量が多い。紙マニュアルが入ったフライトバッグの重さは10キロとCAの約5倍で、内容の改訂も多く発生する。マニュアルをiPadに置き換えることで、持ち運びが便利になったのに加え、差し替え時間も短縮した(ただし、一部資料は紙を併用している)。
また、デスクワークを兼務するパイロットの場合、乗務時間を確保して生産性を維持しつつ、決められた場所でデスクワークをすることが必要となる。そこでANAは、乗務に伴う宿泊先や乗務の前後でも場所にとらわれず業務ができるよう、Web会議や自席のクライアントPCへのリモートアクセスを導入した。
システム構成:サービス中心で早期構築
iPadの業務利用に関わるシステムは、カタログ配信サービス「ビジュアモール スマートカタログ」、モバイルデバイス管理(MDM)サービス「ビジネス・コンシェル デバイスマネジメント」など、主にソフトバンクテレコムが提供するサービスで構築した。iPad本体は、ソフトバンクテレコムからレンタルしている。
カタログ配信やMDMにソフトバンクテレコムのサービスを選定したのは、「機能も重視したが、端末のレンタルから個別のサービスまで一括して提供する総合力を評価したからだ」と林氏は語る。「先行したCA向けのシステム構築の場合、サービスで全てを作り上げたことで、導入準備は1カ月で済んだ」(林氏)
社員向けの問い合わせ窓口業務は、ANAグループの情報処理システム会社であるANAシステムズに委託した。一方、キッティングとバージョンアップ管理はソフトバンクテレコムに委託。「バージョンアップ管理は、提供側に委託することで迅速な対処が可能になる」(林氏)と判断した。
現状の課題:「想像以上に大変だった」現場の運用
確実な成果を上げたiPad導入だが、課題も見えてきた。その1つがアプリケーションの管理だ。ANAは、App Storeの利用制限は施していないが、IT部門として使用を禁止したいアプリケーションのブラックリスト、現業部門が利用を推奨するアプリケーションのホワイトリストを定義している。だが導入したMDMではブラックリスト/ホワイトリストに基づくアプリケーションの制御ができないため、現業部門とIT部門の双方の運用でカバーしているという。
もう1つの課題が、OSのバージョンアップの制御である。iOSの場合、新しいバージョンが出ると更新通知が表示され、エンドユーザーがすぐにOSをバージョンアップできてしまう。アプリケーションの動作検証が済む前にOSをバージョンアップしてしまうと、業務に必要なアプリケーションが稼働しなくなる可能性がある。「特に、マニュアルが見られなくなると運航に支障が出るので、バージョンアップ管理はシビアな問題」(林氏)。この点もシステムによる解決が難しく、現業部門の運用で乗り切っている。
「現場の管理負荷が想像以上に高かった」と林氏は明かす。今後はこうした状況の改善に取り組んでいくという。
今後の展望:“個客”に向けたサービス強化にiPadを生かす
ANAは、今後もiPadをはじめとするITを積極的に活用する考えだ。特に、機内サービスの向上に優先的に取り組むという。顧客と接する時間が最も長いのが機内だからだ。「ITを使って顧客1人ひとりの食事の好みや飲み物の飲み方などを判断し、顧客がより快適な時間を過ごせるような提案型のサービスを提供したいと考えている」(林氏)
iPad導入を成功に導くポイントとは何か。林氏が強調したのは、iPadの導入を目的化しないことだ。「やるべき業務改革をしっかり見定めるのが先決。iPadはあくまでも実現手段だと認識することが必要」。また、最初から多くのことに手を付けるのではなく、「当初は目的を絞り込み、スモールスタートで実績を積み上げていくことも大切」だと林氏は語る。
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