「ブラウン管とは何か」「テレビの父は日本人」――テレビは謎に満ちているテレビの技術進化を総まとめ【中編】

テレビは1880年代の登場から現代に至るまで、進化を続けている技術だ。ブラウン管の発明からのテレビ100年の歴史をおさらいする。

2024年07月20日 09時30分 公開
[Madeleine StreetsTechTarget]

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 世界におけるテレビの影響は、2020年代の現在も絶大だ。依然としてテレビの技術進化が続いており、現在はインターネット通信やWebコンテンツの閲覧が可能なスマートテレビが普及している。しかしテレビは最初から高度な技術を備えていたわけではなかった。1880年代にまでさかのぼり、テレビの技術が登場してから普及するまでの歴史を振り返ってみよう。

1880年代〜1890年代:テレビの基本技術の登場

 20世紀に開発された、テレビの技術進化につながる技術が2つある。陰極線管(CRT:Cathode Ray Tube)と、機械式の走査システムだ。

 1897年、カール・フェルディナント・ブラウンがCRTを発明した。初期のCRTが「ブラウン管」と呼ばれることがあるのはこのためだ。CRTは、電気とカメラの原理を組み合わせることで、電子ビームが蛍光スクリーンにあたったときに可視光を発生させる。これが後に、テレビの受像管(画像を表示するための真空管)になる。

 その約10年前の1880年代に、パウル・ニプコウは機械式の走査システムを開発した。穴を開けた金属の円盤が回転して、並んだ穴を光が通る。この光の小さな集まりで、電子線として伝送できる画像を生み出した。これがテレビの最初のフレームだ。

 どちらの技術も、現在のテレビになるまでに、バージョンアップを繰り返している。しかしこの2つは重要な発見であり、他の技術者や科学者による後の実験の基礎になった。

1900年代〜1920年代:機械式テレビと電子式テレビの登場

 短期間だが、機械式と電子式、2つの方式のテレビが競合した時期がある。機械式テレビは、スコットランドの技術者ジョン・ロジー・ベアードが発明した。ベアードの発明は、ニプコウの機械式走査システムを基にしている。機械式テレビジョンは、金属円盤を回転させて動画を電気インパルスに変換し、これをケーブルで受像機に届ける。得られるのは解像度の低い明暗のパターンだけだが、遠距離まで動画を伝送できる。1928年にベアードはロンドンとニューヨーク間で動画を伝送した。1926年には、ロンドンの百貨店で映像の伝送技術を大衆に披露した。これらの動きを受けて、1929年に英国放送協会(BBC)はベアードのシステムを利用開始する。1932年にベアードは機械式テレビジョンを商品化した。

 同じ時期に電子式テレビの開発も進んでいた。1927年に米国のフィロ・ファーンズワースはCRTを用いて電子線で画像を走査し、別の画面でほぼ瞬時にそれを再生することに成功した。電子式テレビの方が、映像の解像度が機械式テレビジョンよりも高かった。また製造が安価であったことも電子式テレビの競争力を高めた。

 電子式テレビジョンには、重要人物がもう一人いる。教員だった日本の高柳健次郎は1926年、CRTシステムで画像を伝送し、ディスプレイに投映してみせた。高柳は特許申請しなかったため、この発明で経済的な恩恵を受けることはなかった。ファーンズワースも、経済的な恩恵をほとんど享受できていない。第二次世界大戦中、米国政府はテレビの販売を停止しており、大戦後にファーンズワースの特許は期限切れを迎えている。

1928年〜1940年代:テレビ放送の開始

 機械式テレビと電子式テレビが登場してから、テレビ放送が始まった。米国の連邦無線委員会(FRC)は1928年、発明家のチャールズ・ジェンキンスが運営するメリーランド州の実験局「W3XK」からの初放送を承認した。FRCは1934年に連邦通信委員会(FCC)に置き換わる。その後の数年間に、フィルム映画のシルエットといった映像が幾つかの局から放送された。1939年にはNational Broadcast Company(NBC)が初めての定期番組の放送を開始した。初期の放送はエリアがニューヨークに限定されており、受像機の所有率が低かったことから、番組が届けられたのはわずか数百台だった。

 テレビは、第二次世界大戦以前はまだ高級品だった。1930年代、ほとんどの一般消費者がまだ最初の1台に手を出せない中で、Macy'sやBloomingdale'sなどの米国の大手百貨店は数種類のテレビを販売した。この時のテレビは表示部が小さく、わずか5インチのものもあった。戦争の兆しがあることから消費者は支出を控えている傾向にあり、テレビは必需品ではなくぜいたく品だった。

 Columbia Broadcasting System(CBS)など、NBC以外の放送会社の参入を受けて、FCCはテレビ受像機の統一規格の策定に乗り出した。これにより、1つの受像機でさまざまな放送会社の放送を受信できるようになる。その際にFCCは全ての放送会社にアナログ信号の採用を求めた。アナログ信号によるテレビ放送は、2000年代にデジタル信号に置き替わるまで続いた。

 第二次世界大戦が始まると、民生テレビから軍用の電子機器に注目が移った。これを受けて多くの放送網が、放送の頻度を下げたり完全に取りやめたりした。

1950年代:カラーテレビの到来

 カラーテレビの技術は1904年の時点で議論されていたが、「赤、緑、青」の三原色によるシステムを明確に打ち出したのは、ベアードによる1928年の機械式テレビだった。1940年、CBSの開発チームがこのアイデアをさらに進化させ、三原色を画面に表示するシステムを開発した。第二次世界大戦後、テレビ業界の他の企業も、機械式テレビの進化に追従した。1950年代の始め、全米テレビジョンシステム委員会(NTSC)が、白黒の受像機と互換性がある電子式テレビのカラーシステムを開発した。これが1954年のNBCによる初のカラー放送につながった。

 カラーテレビの一般大衆への普及は、始めてのカラー放送開始から遅れた。1960年代になっても普及せず、一般的な家庭は1970年代以降も白黒の受像機を所有していた。初期のテレビ受像機は価格が高く、技術進化のたびに買い替えられる家庭ばかりではなかったからだ。カラー放送は白黒でも表示できるため、テレビ文化としてカラー放送が普及するまでは、一般消費者にとってカラーテレビにアップグレードする大きな動機がなかった。

1960年代〜1990年代:ケーブルテレビの幕開け

 第二次世界大戦後、軍需分野で進歩した技術を民間企業が採用し始めた。テレビは製造コストが大幅に下がり、一般大衆にも手が届きやすくなった。1950年までに、米国のテレビの受像機数は約600万台になった。視聴可能なユーザーが大幅に増えたことで、テレビ番組の内容はさらに多様化し、ニュース以外のコンテンツも盛り込まれるようになった。マガジン番組ともいわれる総合番組が増大し、1950年代にはNBCの情報番組「Today」とトークショー番組「The Tonight Show」が始まった。演劇をテレビ向けに作り替えた番組も人気を博した。

 しかし十分な量の信号を受信する必要があった初期のテレビ放送は、視聴エリアが主要な大都市圏に限られていた。農村部や地方では、高所に立つアンテナが受信した信号がケーブルで接続された家庭に届けられる、主要3チャンネルに限られていた。大都市圏でしか視聴できないテレビ番組が人気番組になったことから、有線で映像を伝送するケーブルテレビの拡大は経済的なチャンスになった。

 地方放送局へのケーブルテレビの影響が予想されたことから、FCCがケーブル網の規制に乗り出した。1970年代の始めにかけてケーブルテレビの普及は一時的に停滞したが、その後ケーブル網は規制が解除される。ケーブルテレビには、特定の番組の視聴に料金を払う有料モデルが登場した。この有料モデルをいち早く始めたのが、1972年に設立され、衛星信号を活用して全米で視聴エリアを拡大したHome Box Office(HBO)だった。


 後編は1990年代から現代のスマートテレビの登場に至るまでのテレビの技術進化の歴史を解説する。

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